神津島での記念ミサを中心とするこの祭もすでに半世紀を経ています。文禄年間の朝鮮出兵の折、捕虜として連行されてきたこの女性、キリシタンとなって「おたあジュリア」として知られる人物と歴史について韓国のカトリック平和新聞に掲載された記事があります。
今回、同新聞の許諾を得、また翻訳の協力もいただきました。当時の日本と朝鮮にかかわる歴史の激動を伝える記事、ぜひご一読ください。(編集部)
日本に連れ去られたオタ・ジュリアの直筆の手紙が初めて公開 日本の博物館が3通の手紙を公開...弟への思いが込められています。
ジュリアの出身背景や年齢などが確認され...最後の行方が明らかになる可能性があります。
“私の弟は手に青いあざがあり、足に赤いあざがあります。あなたも同じ部位にあざがありますか? どうかお答えください... 私たちの兄弟の中で、あなたは親と一緒に逃げたと思っていましたが、私と同様にこの国に連れてこられているとは...”
戦争の嵐に生き別れた弟を他国で噂をたよりに探す切ない気持ちが伝わってきます。喜びと懐かしさ、悲しみともどかしさが同時に感じられるこの手紙を書いたのは「オタ・ジュリア(율리아 ユリア)」です。壬辰倭乱のとき日本に連れ去られ、カトリックの洗礼を受けた朝鮮人女性で、孤島に流されながらも改宗を拒否し、一生を堅実なクリスチャンとして過ごしました。まだ福者にも聖人にも上がっていないが、韓国と日本の信者たちにとっての信仰の模範的存在です。
彼女が自ら書いた3通の手紙が山口県の萩博物館で初めて公開されました。私たちが入手したのは、古い日本語で書かれた手紙の一部の写真と現代日本語への翻訳です。1609年8月19日、彼女が萩で下層民として暮らす弟(日本名の村田安政)に送った最初の手紙です。
この手紙は、韓国と日本のキリスト教史学界で大きな反響を呼んでいます。ジュリアの名前と出身背景は以前は推測の域を出ませんでしたが、この手紙を通じて直接確認できるようになったためです。
以前、ジュリアは王族である全州李(イ)氏(전주 이)であるという説がありましたが、手紙では自身を金(キム)(김)氏という両班のの家柄であると述べています。具体的には「漢城(ソウル)で『濟運大軍節度使』と呼ばれた王の近臣キム・セワンオン(金世王温)と妻ホン氏との間の5人の子どものうちの長女と自己紹介しています。しかし、韓国内の資料には「濟運大軍節度使」と「キム・セワンオン」の名前を見つけることができず、検証が必要な部分です。
また、ジュリアは自身を「タア(たあ)」と表現し、1592年の戦争当時に13歳だったと述べています。以前に知られていた「オタ(오타)」という名前の「オ(御)」は、尊敬の意を示す接頭辞でした。つまり、「オタ」ではなく、「タア」がより適切な名前のようです。もちろん、正確な名前はまだ明らかになっていません。 “ジュルリア”または“ジュリア”は洗礼名 "ユルリア”(율리아)の日本語の発音です。
さらに、ジュリアは手紙の受信者を自分と7歳離れた次男である “ウンナキ(운나키)”と呼んでいます。文脈からすると、“タア”と “ウンナキ”は朝鮮にいた頃から使っていた名前である可能性が高いです。特に “ウンナキ”の場合、“ウンラク(운락)”、“ウンアク(운악)”、“ウンハク(운학)”、または “응락”などの語を指す可能性があります。
日本のキリスト教史学者である浅見正和(慶應義塾大学文学部教授)は、「これまでのジュリアに関する記録は、イエズス会宣教師の文書に断片的にしか登場しなかった」と述べ、「手紙は彼女の口から詳細な情報を知る貴重な資料です」と評価しています。そして、「ジュリアの高貴な出自が実際に明らかになった」と述べ、“戦争によって離れた実の弟に実際に会った経緯も明らかになった”と述べました。
日本の豊臣秀吉の攻撃が始まった当時、ジュリアの家族であるキム(김)氏一族は日本軍から逃れて散り散りになりました。ジュリアは手紙で、「私は1593年に漢城(ソウル)で別の11歳の弟と小間使いと一緒に連れ去られた」と述べています。
日本に連れ去られた彼女は、朝鮮を侵略した先頭に立つカトリック信者である小西行長(アウグスティノ)の領地でその妻の侍女として生活することになりました。そして、1596年にはイエズス会のモレホン神父に「ジュリア(율리아ユリア)」という名前で洗礼を受けました。その後、内戦が勃発し、小西が敗北して家が断絶したため、ジュリアは勝者であり、日本の新しい支配者である徳川家康に引き渡されます。
徳川家康の目に留まり、彼の居城である静岡の駿府城に住むジュリアは、日本各地の情報を得る機会を持ちました。ある日、彼女は耳を疑うような話を聞きます。山口一帯を支配する毛利氏の家臣、平賀氏の家に、彼女の弟に似た朝鮮人捕虜がいるというのです。
ジュリアは手紙で、「あなたのいる家の一族の人が、朝鮮にいた時のあなたの様子を話すのを聞いて、私は私の弟に違いないと思いました」と述べ、「日本にいるとは思わず、それまで探していませんでした。私の弟であるのなら、約20日間休暇を貰って駿府に来てください」と必死に頼みます。
手紙を受け取った弟は幸運にも駿府に行き、姉のジュリアと再会したといいます。また、弟は家康に会い、彼(家康)が着ていた着物(小袖)、刀、馬などを下賜された後、萩に帰りました。徳川家康の好意を受けた弟に、毛利氏一族は 村田という名前と「封土」(200石)を授与しました。こうして朝鮮人捕虜の “ウンナキ”は日本の武士“ムラタ・ヤスマサ(村田安政)” となりました。
その後、村田家萩に拠点を置き、武士として生活しました。ジュリアが書いた3通の手紙と、家康から授かった着物などは、代々の子孫に大切に保管されてきました。しかし、最近、安政の直系の子孫であるノリオ氏(1941年生まれ)が萩博物館に寄贈し、一般に公開されました。
直筆の手紙の内容を韓国語に翻訳した韓国教会史研究所の特別研究員であるイ・セフン(トマス)博士は、「品位のある両班の出自で漢字を学び、日本語も知っていたジュリアは、信仰を堅く守り、宣教師たちに大きな助けとなったでしょう」と推測しました。ジュリアは実際に、信仰深く模範的なカトリック信者として、貧しい教友たちに衣服や食べ物を分け与え、頻繁に告解を受けたという内容が宣教師たちの手紙に記されています。
純潔と信仰を守るために、家康の側女となることとキリスト教からの改宗を拒否し続けたジュリアは、最終的に1612年に流刑にされます。彼女がいくつかの島を経て着いた場所は、東京都にある離島、神津島でした。ジュリアは流刑地でも信仰生活を諦めませんでした。ミサに参加できないため、持参した十字架の前で頻繁に祈りました。洗礼を授けたモレホン神父に手紙で司祭にミサを行う絵図と鐘を要請した記録もあります。
過去には、ジュリアが神津島で40年間生活した後、最終的に命を終えたという言い伝えが定説に定説のようになっていたことがありました。島には住民たちがジュリアの墓と主張する墓もあります。しかし、後に明らかになったイエズス会の宣教師たちの手紙によれば、ジュリアは1616年に家康の死後、流刑から解放されて各地で信仰生活を送ったと言われています。
彼女は1619年に長崎に滞在し、女性や子供たちに教義と聖歌を教えて、追放されるなど、貧しい放浪生活をしながらも福音を広める努力をしました。ジュリアに関する最後の記録は1622年にイエズス会の日本管区長パチェコ神父が書いた手紙で、「大阪で宣教師たちの援助を受けながら生活している」と記されています。
イ・セフン博士は「ジュリアの直筆の手紙は、彼女の晩年についての手がかりとなる可能性があるでしょう」と述べ、「弟である安政がいる萩に行って、波乱万丈な生涯を終えた可能性もある」と推測しました。また、「日本の教会史の中で朝鮮人信者は我々と無関係だと見ることはできない存在であり、この手紙の公開を契機に、日本で殉教した朝鮮人信者に対する関心が高まり、研究もさらに多様に行われることを期待しています」と述べました。
オタ・ジュリアの直筆の手紙は、2023年6月18日まで萩博物館で展示されています。
カトリック平和新聞記者:イ・ハクジュ、goldenmouth@cpbc.co.kr
(2023.05.31.08:11修正 2023.06.01.23:58)