3.300年の時を超えて今に蘇ったシドティ神父


千葉悦子(吉祥寺教会所属・キリシタン史研究者)

ジョバンニ・シドティGiovanni Sidoti神父(1667年~1714年)

2014年夏、シドティ神父が突如脚光を浴びる出来事が起きた。

再開発に先立つ発掘調査で、文京区小日向の切支丹屋敷跡地から3基の墓と3体の人骨が出土した。シドティ神父の死から丁度300年目の出来事である。

当初から長身の一体はシドティ神父ではないかと考えられていた。その後DNA鑑定等の科学調査が行われ、2016月、文京区はそれぞれが、シドティ神父、長助、はるの遺骨の可能性が極めて高いと発表した。鑑定人は〝発見が10年早ければ分析技術が及ばず、逆に遅ければDNAは破壊され鑑定は不可能だった〟と語った。

まさに、300年目の「この時」に姿を現したかのような奇跡だった。

2016/4/5読売新聞

2016/11/9朝日新聞

 

に、その年の11月、遺骨を元にシドティ神父複顔像が制作されるなど、一気に注目度が上がった。

研究書も次々に刊行。たとえば、古居智子『密行』増補版(敬文舎、2018)はイタリア語版とフランス語版がヨーロッパでも出版された。イタリアの研究者マリオ・トルチヴィア神父の『Giovanni Battista Sidoti』(2017)は『ジョヴァンニ・バッティスタ・シドティ』(教文館、2019)として日本で出版された。鑑定にあたった篠田謙一氏の『江戸の骨は語る』(岩波、2018)も出版された。また各種シンポジウムも多数開かれた。

長い間霧に包まれていた神父の生涯がようやく明らかになってきた。

従来のシドティ神父像

かつてはどう認識されていたか――。

結城了吾『日本の教会の歴史』(女子パウロ会、2008)にはこう書かれている。

「シドティの来日は日本の教会の歴史で一つのなぞとなっている。だれが彼をつかわしたのか?わたしたちに残されたのは彼の英雄的な生活とさびしい死のたよりだけである」(p114

一般には〝キリスト教禁制の日本に無謀にも潜入したイエズス会士。上陸と同時に捕まり、切支丹屋敷に軟禁され、召使いの長助、はるに洗礼を授けたことで処刑された神父〟位に考えられていた。

長助、はるも処刑されたのだが、かつて知人がこう語ったことがあった。

「なぜ、信者になれば殺されることが分かっていながら、シドティ神父は人に洗礼を授けたのか?それは宣教師のエゴではないのか?」と。

彼は無謀な密入国者だったのだろうか?エゴイスティックな宣教師だったのだろうか?

『西洋紀聞』が語るシドティ神父

新井白石

シドティ神父といえば、新井白石の『西洋紀聞』が連想される。

遠藤周作はこの書を高く評価し〝「西洋紀聞」は、日本の生んだ最も美しい本の一つ〟と語った。(キリシタン時代 殉教と棄教の歴史』)

本史上稀有な知識人&官僚だった新井白石がシドティ神父を4回訊問し、その内容を記録したものである。その時、白石は52歳。シドティは42歳だった。

白石は初対面の時から、シドッティの品格と学識の高さに目を見張った。

※以下の西洋紀聞からの引用文は大まかな現代語訳である。

「彼は大変な博聞強記で学問全般に通じており、天文、地理のことでは、到底及ぶものがない」(上巻)。シドティもまた白石に強い印象を受けたようだ。白石にオーストラリアの位置を質問された時、

「それはお答えできません。あなた様は大きな事業をなさる方に相違なく、その場所をお教えすれば、その地を奪うこともできましょうから」などと語り、白石を微笑させている。

白石はシドティに西洋諸国及び世界の国々の政治、地理、歴史、について問い、キリスト教を問い、なぜ日本にやって来たのかを問いただした。初めオランダ通辞でさえも理解できなかったシドティの言葉が、初回訊問の中盤からは白石とシドティが直接会話できる程になった。両者の頭脳には驚くばかりだ。白石はシドティとの出会いを友人に「一生の奇会」と語った。白石は訊問以外に、私的にもシドティのもとを何度か訪れている。

それから6年後、シドティが処刑された後、白石は訊問の内容をもとに上、中、下巻にまとめた。第一次完成は1715年頃である。鎖国中の日本に於いて世界を知る事のできるこれ程貴重な書はないが、キリスト教の記事を含むため、ごく一部の学者を除いてその存在は長い間秘匿されていた。ようやく大槻文彦校訂によって出版されたのは約170年後のことである。

『西洋紀聞』の内容については、現代語訳のサイトさえあるので、詳しくはご覧頂くとして、ここでは来日の謎に絞って見ていきたい。

来日の理由をシドティはこう語った。

「伴天連追放の原因となった〝宣教師奪国論〟はオランダ人の讒言に過ぎません。その誤解を解きたいというのがまず一つ。それらキリスト教の誤解を解き、国禁を解き、支那(中国)やシャム(タイ)のようになってほしい。中国は禁令を80年前に解き、今では国交があり利益を共有しています。御国のためにもそれをお勧めします。私は宣教師というよりも、国(ローマ教皇庁)から使わされた使節です」。

一方、白石がオランダ人の考えを聞くと彼らはこう言った。

「祖国で何か死に当る罪を犯し、その贖罪のために日本での布教を望んだのかも知れません。祖国では、彼が布教に努力しても、日本で殺されてもどちらでもいいと考え、来日を認めたのではないでしょうか」

白石はオランダ人の考えを排除してこう結論づけた。

「彼の祖国(=ローマ教皇庁)としては、キリスト教を再度布教させる時期がきたと判断する理由があって、まず試みにこの人を派遣したのであろう」。

そしてその根拠を詳述している。であるならば、処刑などせずに「国に返すのが上策である」と将軍家宣に提言した。シドティが切支丹屋敷の中で比較的自由に生活できていたのも白石の配慮によるものと言われている。

さて、白石の洞察は間違っていなかった。

その実像

前掲マリオ神父著『ジョヴァンニ~』はパレルモやローマに残るシドティ関係の記録を発表した書である。それを元にシドティの生涯を見てみたい。

1667822日、シチリアの首都パレルモで生まれる。

1689年パレルモのイエズス会学院(コレジオ・マッシモ)で神学の学位を取得。 同年かそれ以前に司祭に叙階された。

1690年頃よりローマに行く。〝有徳で抜きんでた行いと文才によって大いに尊敬を受け〟(p63)、枢機卿の聴取官を務めるなど要職に就く。/169312月、クイリナーレ宮殿に於いて教皇の前で演説を行う。

1700年頃、布教聖庁は、中国、タイで禁教が解かれたことに鑑み、日本の禁教を撤回させるべく、まず開国の勧告に使者を派遣しようと考えた。使者として枢機卿協議でシドティが選ばれた。シドティはそれを生涯の使命と確信した。

17032月、ポルトガルを出航し東洋へと向かう。身分は、

パレルモ教区の司祭で、教皇庁の布教聖省から使節として日本へ派遣された司祭」である。

1704年~1708年、マニラに滞在。多くの日本人に会い、日本の文化、言語を学ぶ。また、慈善事業にも尽力。人々から大きな尊敬を受ける。マニラに青少年のセミナリヨを建てる計画をする。

17088月、日本行きの船が見つかり、日本へと出航する。

・同年10月、屋久島へ上陸するも、島民からの通報で直ちに幕府に捕らえられ、長崎へ連行される。

・翌1709年、江戸へ護送され小日向切支丹屋敷へ収容される。

同年、新井白石の訊問を受ける。白石はそれをもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を書く。

 切支丹屋敷では、かつてジョゼッペ・キアラの召使い(白石は黒川寿庵の召使いと書いているが、それは誤認)だった長助、はるがキアラの死から24年後にシドティの使用人となった。

1714年、長助、はるが、シドティ神父から受洗したことを自白。それにより人は地下牢に入れられ獄死する。(シドティの死は1127日、享年47

2人の自白を『西洋紀聞』はこう書く。――むかし私達の師(囚人のイルマン黒川寿庵)が存命の頃、ひそかにその教えをー禁教も知らぬままー受けました。今回、シドティ神父様が教えのためにその身を顧みず、遠路はるばる日本にやって来て、しかも捕囚の身であるのを見、私達は老い先も短く、地獄に墜ちるのは情けないと思い、神父様から洗礼を受けて、信徒となりました。しかし、このまま黙っているのは、国の掟にそむくことですので、ここに申し出ました。法に従って私達は処分に甘んじます――

この自供からは自分達自らが受洗を願ったと読み取れる。

 仮に目の前の人から授洗を願われたとして、それを断れる宣教師がいるだろうか?自らの死を覚悟の上でシドティは授洗に踏み切ったのではないだろうか?

「教皇親書」はどこに?

ところで、白石は『長崎注進邏馬人事()』に、シドティが携帯して来た品々を絵入りで事細かく書いた。その一部を挙げたのが下の図だ。

上の聖母像は1954年、東京国立博物館で発見されたシドティが携帯して来た「親指の聖母」である(現在、重要文化財)。その他、彼はミサ用具、法衣、16冊の書籍、黄金、日本の銭も所持していた。

実はシドティ来日時、携帯品の中に「教皇の署名のある命令書の束」があった。古居智子は本の中で、長崎の『オランダ商館長日誌』に記録のあるそれらが、シドティの長崎拘留中に「ぷつりと姿を消してしまった」と書いている。そして、隠蔽者がいたとしたら、日本貿易を独占し続けたいオランダ人だろうと。(マリオ神父も著書に、全ての書類が無くなってしまったことに言及している(前掲書p119))。

もし、それらを白石に提示することが出来たら、シドティの運命も、ひいては日本の鎖国政策も違う展開を見たかもしれない。白石は「信任書を持たないのでシドティを全面的には信用できない」(『西洋紀聞』下巻)と書いている。無念としか言いようがない。シドティは、貨幣改鋳に着手しようとしていた白石に重要な提言を与える事も出来た。シドティはそのアイディアをも携えて来日したのだった。

以上駆け足で見て来たが、シドティ神父は、ペリーの黒船(1853)より150年も前に、たった一人で、「開国を諭すために来日した教皇の使節」と言えるだろう。ペリーは隻の軍艦を引き連れ、空砲を撃ちながら浦賀沖に来航した。方や、奇妙な日本人の姿で、たった一人の上陸である。これはすごいことだ。

江戸での生存を信じた教皇庁は後にシドティを「教皇代理」に任命した。その時シドティは切支丹屋敷の地下牢で死を目前にしていた。地下牢の暗闇で見えていたのは何だったのだろうか。

それから300年間、その土の下でシドティの遺骨は沈黙していた。

そして、2014年の奇跡的な出現となり、シドティ神父の「時」が再び流れ出した。

故郷パレルモではそれをきっかけに「シドティ神父、長助、はるの列福申請運動」が起き、昨年ようやくヴァチカンに受理された。ヴァチカンでの本格審査はまさに今、始まったところである。

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