カトリック教会には聖人とされている人が数多くいて、信者は洗礼を受けるときに、聖人の名を洗礼名(霊名)として受けるのが慣例となっています。そのように、ある優れた人をその宗教性において尊敬することは、「上人(しょうにん)」とか「聖(ひじり)」に対する格別な尊敬とそれほど変わらないのかもしれません。
ただ、教会でいう「聖人」は、皆が、なにも欠点のない「完徳」の人、「聖徳」に満ちた人、常人が及び難いような特別な存在というわけでもありません。いろいろな聖人伝を見ると、たくさんの迷い、間違い、試行錯誤に満ちた、実に人間臭い存在である場合がしばしばです。しかし、その中にも、ある一瞬の出来事や出会いで大きく変貌していくさまを見せるのが聖人たちです。そこで、神の愛と聖性が輝き出ることにおいて、共感が生まれ、崇敬が生まれます。
神の恵みの場となった、そのような人々の上には、神の祝福があふれています。「福者」という語はすべての聖人の共通の真実を表すものです。その生きざまをもって神、キリストをあかししていればだれもがいわば聖人です。その中で、普遍的に認められ、その人と出会い、その人を知り、その人に学ぶことが奨励されるのがいわゆる聖人だ、と言えるでしょう。
そうした聖人は、時代と文化と言語の壁を越えて、人がキリストと出会う道を開いてくれます。現実の世界、その歴史から生まれるいろいろなしがらみや制約の中で信仰を生きること、神・キリストをあかしすることがキリスト者の生きる道であるからこそ、聖人の存在はかけがえのないものとなっています。
今回は、洗礼名となっている聖人について、あるいは、今、自分がもっとも影響を受けている聖人についてなど、一人ひとりの信仰の歩みの中で思うところを寄稿していただいています。何度も読み返したくなるような原稿の数々です。
このテーマは、また、今月の特集に尽きるものではありません。今後も、信仰について語り合うための一つのコーナーに、ぜひ、育てていきましょう。