倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員、立教大学日本学研究所研究員、
同志社大学一神教学際研究センター・リサーチフェロー)
*前回の記事はこちらです。
それでは、長崎的カトリック(本稿では、宗教事象のことを長崎的カトリックと、信徒のことを長崎カトリックと呼ぶ)とは何であろうか。あまり他県の信徒たちは知らないが、長崎カトリックの信仰的な魂の故郷は、『カトリック祈祷書』(長崎大司教認可)という一冊の本にあるといって差し支えない。この本は非売品である。しかし、マルチレス中町(カトリック中町教会内売店)やサンパウロ長崎センター(カトリック浦上教会裏)で人知れず販売していることを、本稿では強調しておきたい。他県の信徒の方には、ぜひ来崎の際にはお土産にお買い求めいただきたい。頒布価格は、私が見た限りでは、聖母文庫なみの値段で税込540円であった。
おそらく以前は本当に「非売品」だったであろう。長崎カトリックは、宗教的行事の際にはいつもこの本を身に着けている。葬儀にも、焼き場にもこの本を持参する。「火葬場での祈り」という祈りも所収されている(347~348頁)。おそらく司祭がいない状況をも想定している。
これもあまり知られてはいないが、熱心な長崎カトリックは、朝晩、ミサに出るのみならず、朝晩、家族総出での祈祷の時間がある。場所は、カトリックの家にはだいたい存在している祭壇の前である。朝は『カトリック祈祷書』に記載されている「朝の祈り」を唱え(2~19頁)、晩は「夕の祈り」を唱える(25~41頁)。通例では、先唱を一番若い長男が行い、残りの家族が続く。例えば、祖父母―父母―兄妹と家族構成であれば、年少の長男である兄がこの任を引き受ける。多感な子どもにとってはなかなかの重労働と言える。
『カトリック祈祷書』の内容に関しては、大部分が『公教会祈祷文』(1947年初版)に類似しているが、筆者は実践神学の専門ではないので、両「祈祷書」の比較に関しては、専門家に稿を譲る。
一信徒が「祈祷書」を持ち歩き、家庭においても毎朝毎晩祈祷の時間を持ち、しかも家族全体を巻き込んでの信仰生活は、おそらく長崎以外にはないのではないだろうか。これは実証できないが、こうした信仰のスタイルは、無意識的かもしれないが潜伏キリシタンの「オラショ」(口承の祈り)の伝統に連なるものではないだろうか。だいたい7~8歳のころに「初聖体」があり、その際は『カテキズム』(教理問答)を暗記する。そして、『聖書』を日ごろから読む習慣はあまりない(ここはカトリックがよく批判される点である)。『カトリック祈祷書』が第一の書、『カテキズム』が第二の書、『聖書』が第三の書といった様相であった。毎日口にする書物は、やはり比重が重くなる。
私の知る長崎的カトリックは、私が上京した25年前よりも以前のものである。もうこうした「家族総出の祈り」の習慣は途絶えつつあるのかもしれない。
遠藤は、この『カトリック祈祷書』の存在やこの本にまつわるカトリック家庭での信仰生活を知っていただろうか。というのも、他県出身の信徒の長崎に対するあこがれは、はるか昔の「夢とロマンのキリシタン」に対するものであることが多く、現在の長崎カトリック信徒を一足飛びに飛ばしがちであるからだ。
そんな朝晩の「苦行」を経てきたはずの長崎カトリックであるが、1966年の『沈黙』で広く世に知られるようになった遠藤周作と相性が悪いと言われてきた。中には、ある長崎の宗教指導者が「遠藤周作の『沈黙』は禁書だ」と言ったという伝承も強く伝わっている。こうした言説があるということについて、筆者は東京で知らされた。かなり強いイメージであるらしく、筆者が長崎出身と聞くと、「遠藤周作はあまり好きではないでしょう?」という質問をたびたびされた。
この言説について、1960年代のキリスト教界をよく知る何人かの長崎の先輩に話を聞いてみたが、宗教指導者が「遠藤周作の『沈黙』は禁書だ」と言ったという話は聞いたことがない、ということだった。「読むな」という類の空気もなかったようで、むしろ、60年代の神学校界隈で『沈黙』は実によく読まれ、卒業論文のテーマにした神学生もいたということだった。90年代に『沈黙』を読んだ筆者も、さほどの違和感は抱かなかった。
カクレキリシタン研究の泰斗で、長崎出身の宮崎賢太郎も、「筆者は大学浪人時代に遠藤周作の代表的な純文学作品『沈黙』(新潮社、一九六六年)と出会い、おおきな刺激を受けた。『命を捨てても信仰を守り通すべきなのか、命を守るためには、棄教(棄教のふり)もいたしかたないのか』。この問いに神は何と答えるのか。むろん神は『沈黙』したまま答えてくれるわけではない」(『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』16頁)と書いている。
私の知る長崎人は、どうも遠藤周作を好意的に読んだ信徒ばかりである……。本稿で筆者は、「遠藤周作と長崎的カトリックの相性の悪さについて」書かなくてはならない(しかし実は、長崎カトリックの中に遠藤文学をあまり好まないという層が一定数いることについてはよくわかっている)。仮に「長崎カトリックは遠藤文学を好まない」という命題が正であるとして、「なぜ長崎カトリックは遠藤文学を好まないか」という問いについて考えてみたい。焦点はやはり『沈黙』であるだろう。中でも、殉教の問題が中心に来るように思われる。もう一つは「強さ/弱さ」の問題である。
殉教の問題では、どうしても目立つ登場人物キチジローがいる。「弱さ」のシンボルで、次々にキリシタンが殉教する中、殉教できず裏切りを行う、「日本人のユダともいうべき」(佐伯彰一)キチジローを遠藤はこう描く。
「じゃが、俺(おい)にゃあ俺(おい)の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者(もん)には、踏んだ者(もん)の言い分があっと。踏絵をば俺(おい)が喜んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺(おい)を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出させる。それは無理無法と言うもんじゃい」
(遠藤周作著『沈黙』178~179頁)
「俺は生れつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺(おい)は生れあわせたか」
(遠藤周作著『沈黙』256頁)
いかにも長崎弁が強い人物で、どぎつい人物設定だ。遠藤周作は、「キチジローは自分だ」と書いたようだが、長崎のカトリックにとっては、キチジローが自らの先祖のように感じられてしまう。歴史的証明はできないことなのだが、(自らが生き残っている)代々の信徒は「先祖が踏絵を踏んだ」と思い込む節があるからだ。長崎カトリックは、先祖崇敬の側面も強い。もっとも、辺地や島嶼部に流れ、追っ手から逃げおおせて、潜伏生活に入った可能性もあるわけだが。「踏絵を踏んだキリシタンの子孫」という自意識があればこそ、長崎のカトリック信徒が「裏切者」の色彩が強いキチジローという人物を受け入れにくかった側面はあるだろう。
「殉教者のような強い信仰を持ちましょう」と教会は教えることがある。しかし、これは並々ならぬことである。まずもって置かれている社会的文脈があまりにも違いすぎる。殉教と殉国を同列に考えてはいけないが、軍国教育のようなきらいもある。そこには「殉教を美化する傾向」と「強さへの希求」があると考えていい。殉教者は当然、後世において尊まれるべきものであるが、「毅然として信仰を曲げず潔く命を捨てる」というのが殉教者の常であろうか。凄惨な情景もまた目に浮かぶ。「弱さ」の化身であるキチジローは、殉教することができなかった。遠藤は、あえて「強さ」ではなく「弱さ」を強調して描き、キリスト教の本質を伝えようとしているようにも見える。
また長崎には、「宣教師崇敬」の側面も強くある。バスチャンの予言のように、「遠い海の向こうから宣教師がキリスト教を運んでくれる」というモティーフがある。それだけに、「キリシタンの棄教」より以上に「宣教師の棄教」は苦しいテーマだ。フェレイラの苦悩は読み手にはつらい。
和服を着せられたこの老人のうすい背中に夕陽がいっぱいに当たっている。うすいその背中を司祭はじっと眺めながら、むかし、リスボンの神学校で神学生の敬愛を受けたフェレイラ師の姿をむなしく探そうとした。
(遠藤周作著『沈黙』256頁)
和服姿のフェレイラを照らしているのは、神の恩寵(聖寵)だろう。「棄教」した男をも、神の恩寵は包む。遠藤が最初に想定していた本書(『沈黙』)のタイトル『日向の匂い』は、この情景を表したものではなかったか。
二律背反とは、アンチノミーである。「長崎カトリックは遠藤文学を好む」という正命題と、「長崎カトリックは遠藤文学を好まない」という反命題がせめぎあっているが、どちらの命題も正しい。そして両者の関係は、アンビバレント(愛憎相半)である。キリスト教の文脈で言えば、「弱い」という正命題と、「強い」という反命題の関係も同じである。「弱い」と「強い」の関係は、互いに牽制しあっていて、愛憎相半である。「『弱い』すなわち『強い』」ではないが、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの言葉に「脆弱なる絶対」(Fragile Absolute)がある。キリスト者は、「貧しい馬小屋の飼い葉桶に生まれた赤子=十字架に懸けられた瀕死の男」(脆弱)に、全実存と信仰を賭けるものである。このあたりの逆説の思想にキリスト教の靱やかさがありそうだ。「脆弱なる絶対」の地平に、遠藤は約60年前の『沈黙』において到達していたように思われる。
遠藤周作と永井隆には似たところがある。長崎からすると、両者ともに長崎を書き「長崎を代表している」が、「よそ者」である点である(永井隆は、島根県松江市出身)。そして、ともにカトリック者であるが、幼児洗礼者(ボーン・クリスチャン)ではない点である。
遠藤の筆致からは、「長崎出身者ではないのに長崎を書いている」ことへの恥じらいが感じられる。『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』に所収されたエッセイ「私の心の故郷」の冒頭で遠藤は、「長崎は私の故郷ではない。だが数年前からこの街の古い時代を背景にした長編を考え始めて以来、そして幾度となくここを訪れてから、長崎は私の心の故郷になっていった」と書いている。
意外だったのだが、『月刊自由民主』という月刊誌で、遠藤周作と、長崎出身の文芸評論家・山本健吉が「長崎あれこれ」という題で対談をしているのを見つけた。遠藤の長崎観の一端が伝わる対談である。
遠藤 意外と長崎の人っていうのは、まあ、伝統的かもしれないけども、たいへんよそ者を大事にしますね。
(中略)
よそ者を大事にする
遠藤 そうじゃなくて、道歩いてても何してても、非常に……僕はほかの地方都市へ行ってあんなに大事にされたっていうことは……長崎に行くたびにそう思うんだけどね。
山本 それはやっぱり長崎人の、よそ者に対する隔てのなさっていうのはありますね。たいていのところは「よそ者、よそ者」っていう気持ちがあるでしょ。長崎人にはそれが希薄でしょう。
(対談=遠藤周作、山本健吉「長崎あれこれ」『月刊自由民主』1978年7月号、110頁)
この対談を読んで、当時の長崎が遠藤を温かく迎え、寂しがり屋の遠藤に寂しさを抱かせておらず、本当によかったと思った。遠藤は長崎を、「自分の内面にもっとも合った場所」(聞き手/構成=下野孝文、山下静香「遠藤周作と長崎、ある大きな力で――『とら寿し』大竹豊彦氏に聞く」『敍説』Ⅲ、3頁)とも思っていたようである。
遠藤周作100年。遠藤の偉大さを頌えた上で、ヨーロッパの西のさいはてリスボンの街からフェルナンド・ペソアが出たように、ダブリンの街からジェイムズ・ジョイスが出たように、日本の西のさいはて長崎の街から新たなカトリック詩人・小説家が出ることが俟たれる。遠藤もまたいつまでも自らの腑分けを続けられるよりも、それを望んでいるのではないだろうか。
長崎の先輩・山本健吉が言うように、筆者も長崎人として「よそ者、よそ者」という気持ちは希薄であるが、やはり故郷を特別視・神聖視はしているのである。
【参考文献】
遠藤周作著『沈黙』新潮文庫、1981年
遠藤周作、芸術新潮編集部編『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』新潮社、2006年
遠藤周作文学館編『遠藤周作と『沈黙』を語る――『沈黙』刊行50年記念国際シンポジウム全記録』、長崎文献社、2017年
遠藤周作学会編『遠藤周作事典』鼎書房、2021年
加藤宗哉著『遠藤周作』慶応義塾大学出版会、2006年
加藤宗哉著『遠藤周作 おどけと哀しみ―わが師との三十年』文藝春秋、1999年
兼子盾夫著『遠藤周作の世界――シンボルとメタファー』教文館、2007年
宮崎賢太郎著『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』角川書店、2018年
編訳=柳瀬尚紀、写真=松永学『ユリシーズのダブリン』河出書房新社、1996年
フェルナンド・ペソア著、近藤紀子訳『ペソアと歩くリスボン』彩流社、1999年
スラヴォイ・ジジェク著、中山徹訳『脆弱なる絶対――キリスト教の遺産と資本主義の相克』青土社、2001年
対談=遠藤周作、山本健吉「長崎あれこれ」『月刊自由民主』1978年7月号、自由民主党、1978年
聞き手/構成=下野孝文、山下静香「遠藤周作と長崎、ある大きな力で――『とら寿し』大竹豊彦氏に聞く」『敍説』Ⅲ、花書院、2008年
青来有一著「遠藤周作と長崎――神が無力になるところ」『三田文学』2014年夏季号、三田文学会、2014年
若松英輔著「愛しみの哲学 第五章 哀しみの彼方――遠藤周作と長崎」『文藝』2014年冬号、河出書房新社、2014年