余白のパンセ 12 隣のおばあちゃん


わたしが生まれたのは、東京都新宿区西大久保の都営住宅でした。お産婆さんにお世話になったのよと、母から聞きました。昭和26年(1951年)のことです。

木造の住宅で、二軒続きでした。玄関同士で向かいの家に住んでいたのが、隣のおばあちゃんでした。ご主人のおじいちゃんは、講道館で柔道の免状を書く仕事をされていました。わたしは、小学生に上がる前は、毎日このおばあちゃんの家に遊びに行っていました。おばあちゃんが煎れてくれるお茶を飲みながら、ラジオを聴いたり、おばあちゃんの話を聞いたりして午前中を過ごしました。

おじいちゃんの部屋には、着物姿の男の人の写真が飾ってありました。その脇にはいろいろな大きさや形の筆がぶら下がっていました。「このおじさんは誰なの」とおばあちゃんに聞くと、「この人は嘉納治五郎といってね、柔道を作って、講道館を設立した人なの。おじいちゃんは、毎日講道館に行っているのよ」と話してくれます。わたしはこの質問を何回したことでしょう。おばあちゃんは、そのたびに同じ説明をしてくれました。

あるとき、おばあちゃんの家の前の道で、近所のお兄ちゃんたちがそれぞれお菓子を持って遊んでいました。わたしも一緒でしたが、わたしはお菓子を持っていませんでした。すると、おばあちゃんが家から出てきて、紙に包んだお菓子を渡してくれました。なにやらうれしいのと、優しくされることに少し抵抗もあり、微妙な気持ちだったのをいまでも覚えています。

小学校に行くようになると、おばあちゃんの家には行かなくなりました。でも、おばあちゃんは運動会に来てくれました。わたしがリレーの選手で駆けるところを見に来てくれたのです。おばあちゃんが歩けなくなってからは、近所の人がリヤカーに乗せて運動会に見に来てくれました。

おばあちゃんに可愛がられて育っていったと言ってもいいぐらい、わたしはおばあちゃんの優しい保護のなかで成長しました。

しかし、小学生のころ、楽しい思いばかりではありませんでした。わたしは生まれつき唇に傷がありました。それで、友だちから「鼻曲がり」とあだ名をつけられてからかわれたりしました。たいがいがまんしましたが、どうしても許せない時があり、あだ名を言ったやつを学校中追いかけまわしたことがあります。最後に便所に追い込んで、とうとう謝らせたこともあります。授業がはじまっていたのですが、生徒たちが集まってきていて、先生がやってきました。しかし、わたしはこいつが謝るまでほっといてくれと言って間に入らさせませんでした。

人さまから偏見の目で見られることには、がまんしていました。多くの友達は、わたしに対して差別するようなことはありませんでした。学級委員にもなり、学校は友達がいるから楽しい場所でもありました。

全寮制の高校に入ったとき、ホームシックになったことがありました。周りが優秀な人間ばかりで、劣等感に落ち込みました。中学まで家で大切に育てられたから、わがままになっていたこともあります。

公立で初めての全寮制高等学校ということで、わたしたち3期生に雑誌社から取材に来たことがあります。物理の授業中、4人掛けの机に並んだ写真を撮られました。わたしも4人のなかに居たのですが、掲載された写真には、わたしだけカットされていました。

こういうことにはがまんできていたはずの自分でしたが、そのときはかなり塞ぎ込みました。わたしは要らないんだ、役には立たない人間なんだ、という思いが押し寄せてきたのです。

しかし、そういうことがあっても、なぜかしばらくすると、また自分は自分なんだと思えるようになるのです。それはなぜかと思うとき、必ず思い出すのが、隣のおばあちゃんのことです。おばあちゃんがいつも傍に居て、わたしを優しい愛で包んでいてくれたじゃないかという実感が湧いてくるのです。それは、両親や姉とはちがう、人さまがわたしを大きな愛で育んでくれたという体験です。

それは、いまも「愛」というものがなにかを思うときに、わたしにとってかけがいのないものとして存在しています。

鵜飼清(評論家)


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