『古代キリスト教と女性 その霊的伝承と多様性』
宮本久雄編著、教友社、2022年。定価:2000円+税 220ページ
19世紀に出現したフェミニズムは、思想や政治の世界だけでなく、学問の世界にも大きな影響を及ぼしてきました。それまでは男性中心の世界であった領域に女性の視点が加わることで、様々な新たな発見や反省が促されたのです。キリスト教の世界も例外ではなく、フェミニズム神学や歴史観の見直しを巡って議論が繰り広げられています。『古代キリスト教と女性 その霊的伝承と多様性』は、キリスト教古代における女性を巡って様々な分野の第一人者が書いた4本の論文を収録した論集です。
第一の論文「古代末期におけるキリスト教救貧慈善活動――チェリオの丘・オラトリオ発掘調査と地誌学的考察を中心に――」は、2013年からローマで発掘調査に従事する山田順の報告書です。パラティーノの丘を中心とする異教的ローマ帝国を変容させたコンスタンティヌス大帝は、キリスト教化された新たなローマの中心地としてチェリオの丘を整備しました。著者はそのチェリオの丘で発見された宗教施設の研究から、古代末期における慈善活動とそれに関わった女性像を浮かび上がらせようとしています。
第二の論文「神と向き合う私――女性使徒テクラとローマ女性の変容――」では、聖テクラへの崇敬から古代末期におけるフェミニズムとでもいうべき女性たちの主体的運動を論述しています。テクラとは外典『パウロとテクラの行伝』や『聖テクラの生涯と奇跡』などに登場する女性です。それらの物語によれば、小アジア(現代のトルコ)の裕福な家に生まれたテクラは、偶然聞いたパウロの説教により回心し、婚約者と別れてキリスト教徒になろうとします。これを知った母は街の有力者に圧力をかけて、パウロを逮捕させ、娘テクラすらも処刑しようとしました。ですが、奇跡によりパウロとテクラはイコニオンから逃げ出すことができ、宣教の旅に出ます。アンティオケイアでテクラは街の名士の青年にプロポーズされますが、拒否したために再び処刑されそうになります。街の女性たちの訴えもむなしく、野獣刑に処されたテクラでしたが、雌ライオンや有力者の女性の助力により処刑は中止されました。こうしたテクラの物語は古代末期の女性キリスト者を勇気づけ、彼女への崇敬は遠く西ヨーロッパにまで広がりました。そんなテクラへの崇敬とテクラ伝の読み込みを通じて、著者は古代キリスト教世界の女性像を論考します。その際にテクラ研究の変遷や古代ローマの女性像の変容も紹介されており、一般の読者にも興味深い論文となっています。
三番目の論文「女性と尊厳と自由意志――ペラギウス派、クリュソストモス、アウグスティヌスによる女性観・陣痛観の相違――」は、アウグスティヌスの論敵として知られるペラギウスの思想を中心として神学的に女性の尊厳を探ります。人間の自由意志を強調するペラギウスは、神の恩寵を重視するアウグスティヌスとの間に激しい論争を繰り広げました。ところで、人間の尊厳とは何でしょう。「人間の尊厳とは、人が他の動物と異なって神の似姿を刻印された存在であり、さらに神の似姿とは、自ら自由に意志決定を行う自由にこそ具体的に存在する」(117頁)ということができます。このような観点からペラギウスは自由意志を働かせる女性たちに人間の尊厳を見出しました。西方教会で正統派の聖人となったアウグスティヌスの原罪論が女性軽視を助長したのに対し、異端とされたペラギウスは女性の尊厳を重んじたと論じる著者は、東方教会の聖人ヨアンネス・クリュソストモスの思想との比較を通してキリスト教本来の女性観を考究しています。
四番目の論文「西方キリスト教世界における女性霊性についての試論」では、ビンゲンのヒルデガルトら一般的に「女性神秘家」と呼ばれてきた人々の呼び方を再検討します。「女性神秘家」という名称よりも「女性著述家」という呼称のほうが彼女たちの霊性を十全に表現できるのではないかという試論が神学的に展開されます。
本書は論文集であるため、やや難解かもしれません。それでも様々な分野の専門家たちの興味深い研究は、知的好奇心を刺激し、新たな発見や見地を提供しています。
石川雄一(教会史家)
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