佐藤真理子
新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。
(コロサイ人への手紙3章10~15節)
今月は宗教改革記念日があります。今回は私がそれに際して考えさせられたことをお話ししたいと思います。
数年前、大学時代の友達で集まって大学の先生が司式を行うミサに出席しました。私はプロテスタントの教会で洗礼を受けましたが、カトリックの大学の神学部に通っていました。大学時代、大学の聖歌隊サークルに入っていたのですが、私の学年の友達はほぼ全員がカトリック信者でした。その中で特に仲の良い友達は、私が教派の違いで葛藤している部分などをよく見てくれていました。私は大学時代、カトリックのミサの聖体拝領(聖餐)で、同じキリスト者でありながら自分がホスチア(パン)を受け取ることができないことに寂しさを覚えていました。神学を学んでいましたから、そこに神学の壁があることは頭では理解できているのですが、心では納得がいっていませんでした。中には私の葛藤を理解し私にもホスチアを渡してくださる司祭の先生もいらっしゃいました。
その数年前のミサでは、先生は私以外の参加者にホスチアを渡す形をとりました。
そのとき、その特に仲の良かった友達が、自分のホスチアをさっと割って私に渡そうとしました。私はとっさに先生の目を気にして断ってしまいましたが、その友達の行動を一生忘れることはないと思います。
もう一つ、その友達の言葉でよく覚えていることがあります。
大学院生の頃、聖書科の教員免許を取ろうとしていた私は、自分がプロテスタントで洗礼を受けたので、プロテスタントの学校でないと授業ができないのだと思い込み、プロテスタントの中高で実習先を探していました。そのことをその友達に話した時に「カトリックの学校でも良いのではないか。」と言われたのですが、私のほうが先方から断られると勝手に思い込んでいたので、結局カトリック校では探さずプロテスタント校での実習となりました。とても良い経験になりましたが、終わってからふと、その友達の言葉を思い出し、私の先入観で道を狭めていたのかもしれないと思いました。
その実習校でもまた印象的な経験をしました。私は福音主義的なバックグラウンドで育ったので、修士課程一年目は、当時の指導教官がかなり自由主義的な考え方を持っていたことに論文の書きづらさを覚え悩んでいました。私の教員免許のための実習先はメインラインの教会が設立した学校だったので、実習先もそのような考え方の牧師先生方が多いのだろうと思っていました。ところが、実習校で指導に当たった先生はメインラインの教会の牧師でありながら、私の気持ちをよく理解してくださる方でした。その先生も以前私の指導教官の授業を受けており、私と同じことを感じたと言うのです。
私はその後、福音派の神学校に進学し、入学当初はやっと自分のフィールドに来たのだろうと感じていました。ところが、中には前述した私の元指導教官の先生とよく似た考え方を持つ先生もいらっしゃいました。また神学校では教団同士のつながりが強固で、小さな教団出身の自分には疎外感を感じることも多くありました。その他いろいろなことで、孤独を感じることが多い神学校の日々でした。
このように、私は何度も「ここに属する人はこのような人なのだろう」という先入観が間違っていた、という経験をしました。数々のこのような経験から、私は神様から真理について示されているのを感じました。それは「枠組み」とは虚構のものに過ぎないということです。本当に存在しているのは「枠組み」ではなく、中の個性ある一人一人の人間なのだということです。
私ははじめ、枠組みありきでいろいろなことを考えていたので、判断を誤ることが多々ありました。もちろんどの教派に属するかが理解の助けになることもありますが、実際にはカトリックの中にプロテスタント的な考え方をする人もいれば、メインラインの教会の中に福音主義的な人もおり、その逆もまたあるのです。
先に書いた私の友達は、初めから私を「プロテスタントの友達」ではなく「一人の大切な友達」として見ていました。だから、ホスチアを割って渡してくれたり、実習先を教派で括らなくても良いのではないかという言葉をかけてくれたりすることができたのです。まさしく、その一つ一つが正しいと、私は今になって思うのです。
そして、この神の形である一人一人の個性ある人間こそを見るようにと、神様は示しているのだと思うようになったのです。どこに属していようとも、一人一人が神に愛されている、かけがえのない神の子供なのです。
私は神学校を出た後、一つの教会での働きに従事することに抵抗を覚えました。自分の働きが局所的に還元されてしまうことに違和感を覚えたのです。それは、私がそれまで本当に沢山の教会、様々な教派の人に支えられたからこそ感じたことでした。神学校を出た後に就いたラジオ伝道の働きはまさにそのような自分のニーズに合ったものに感じられました。ところが私の関わっていたラジオ伝道のミニストリーの方針が変わり、ある日突然働きを辞めなくてはならなくなりました。私はその後自分の出身校のつながりで、カトリック発の媒体であるAMORに連載を持たせていただくことになりました。ラジオミニストリーの働きを辞めることになり途方に暮れたとき、カトリックの方々とのつながりが生きてきて、助けられたのです。そこから、今の自分自身のミニストリーへの形へと少しずつ発展させていきましたが、実に様々な背景を持った方が様々な形で私の働きを見守り支え応援してくださることに、本当に感謝を覚えます。
今の自分があるのも、いろいろな人が教派を超えて暖かい優しさを示してくださっているからなのです。
「枠組み」ではなく中の一人一人が大切なのだということは、あらゆることに敷衍されるように思います。先日『戦争は女の顔をしていない』という本を読んでいた時に「仲良くなってしまうと、敵国の人間を殺すのは非常に難しい」という内容を目にしました。また、この素晴らしい反戦の書がロシアの女性によって書かれていることも今の状況を考えると深い示唆に富んでいると思いました。それを読み、私たちは「国」ありきでものを見ようとするあまり、いろいろな過ちを犯すのだと感じました。「国」は人間が歴史の中で便宜上作りあげたもので、様々に変化するものです。しかし、果たして「国」というものは本当に存在しているのだろうか、ある意味虚構の一つの概念に過ぎないのではないかという思いが頭をよぎりました。疑いなく確実に存在しているのは、その中にいる、一人一人の血の通った人間なのです。国は生命を持っていません。しかし、その中にいる人には命があります。命より大切なものはありません。最も優先して守るべきものは、命です。
私が教会について感じているのも、同じようなことです。中にいる人を無視して「枠組み」優先で何かが動くとき、必ず排他性が起こり、犠牲となる人が出るのを、これまで何度も見てきたし体験もしてきました。私は、教会とは「私たち一人一人」なのだということが、聖書の伝える真理なのだと信じています。文字通りそう信じています。
勿論様々な考え方があってよいのですが、私個人は今、自分のアイデンティティを何かの枠組みで定義づけてはいません。自分にあるのはただ、キリストを信じてキリストと共に生きること、本当にそれだけです。言うなればキリスト派です。私の所属はキリストだけです。天の国には教派も教団も無いのです。勿論私自身これまでも教会や教派や教団のつながりで様々な恩恵を受けてきました。ただ、自分の奥底の本当の自分は、天の国の現実を生きていたいと思うのです。
愛は道を誤りません。神学は真理を模索しますが、愛である神を忘れ真理の一側面だけ見ると、本当の真理を見失うのです。議論は議論によって勝つことはできません。議論に勝ってもそこには相手の敗北の上に立とうとする空しい優越感しか残りません。キリストを信じる者は皆一つのキリストの体なので、そこには一切優劣がありません。
愛が、正しい道です。愛がすべての真理を網羅し全うする道なのです。神は愛だからです。ルターの改革から500年以上たった今、私たちは互いに愛し合い、愛という名の一致による更なる改革を起こしましょう。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love
アーメンです!!
福音派だカトリックだといろいろありますが、イエス様のきょうだいで弟子で天のお父様の子どもということは同じ。
クリスチャンになったばかりの私がいうことでもないのかもしれませんが。
もっと兄弟姉妹みんな仲良くできたらいいのにな。
お返事遅くなりました本当にそうですよね。境界線を儲けているのは人間だと思います。皆が神様に目を向けることで、愛による一致がもたらされますように!