『聖母マリアのカンティーガ―中世イベリアの信仰と芸術―』
菊地章太著、サンパウロ、2020年。定価:2100円+税 246ページ/A5判 並製
今日、スペインとポルトガルのあるイベリア半島は独自の興味深い文化と歴史にあふれています。
まず、ローマ帝国衰退後のイベリア半島にはゲルマン系の西ゴート王国が建てられますが、8世紀初頭にはアフリカからイスラーム勢力が侵入してきます。中東のイスラーム勢力とは異なる後ウマイヤ朝というイスラーム国がキリスト教勢力に勝利し、イベリア半島はヨーロッパ大陸に位置しながらもイスラームの影響下に入ります。これに対し北西部に残ったキリスト教勢力は、西欧のキリスト教国と協力してイベリア半島を奪還しようとします。これが世にいう「レコンキスタ」です。
以上の様な教科書的な説明だけを見ていると、中世イベリア史はキリスト教対イスラームという対立構造で理解してしまいます。しかし現実はそう単純ではなく、ムスリム(イスラーム教徒)とキリスト教徒が協力する機会が数多くありました。学問や芸術の分野で宗教を越えた協働の結果、イベリア半島ではイスラーム文化に影響された豊かな独自の文化が発達しました。
そんなイベリア文化史の中で最も重要な人物の一人としてアルフォンソ10世(在位:1252〜1284)の名を挙げることができます。キリスト教徒の王アルフォンソ10世は、イスラームの人々の文化や知識を導入しつつ、自然科学から法に至るまで様々な学業を推進しました。
今回紹介する本が扱う『聖母マリアのカンティーガ集』も、アルフォンソ10世の業績の一つです。「カンティーガ」とは「賛歌」を意味する詩歌のことであり、アルフォンソ10世の『カンティーガ集』には420篇のカンティーガが収められています。当時の国際語であったラテン語ではなく俗語であるガリシア=ポルトガル語で書かれた『カンティーガ集』には楽譜も付されており、音楽学者による復元も試みられているそうです。その音楽には「イスラーム音楽の香りが色濃くただよっている」と言われています。また、詩はイスラーム世界で誕生したセヘルという様式で書かれており、『聖母マリアのカンティーガ集』はイスラーム文化の影響を受けたカトリックの賛歌集ということができます。
その『カンティーガ集』に納められたカンティーガの一部を翻訳しながら、専門的な見地から紹介した本が『聖母マリアのカンティーガ―中世イベリアの信仰と芸術―』です。本書は文化史や民衆史などの観点から興味深い研究が示されているだけでなく、実際のカンティーガを日本語に翻訳した貴重な本といえるでしょう。
『カンティーガ集』の中で語られる物語からは、中世の民衆が抱いていた様々な聖母への信心をうかがうことができます。聖母への信心篤い修道士の口から死後聖母を讃えるバラが生えた話、悪事を働いたため罰としてナイフが頬に刺さって抜けなくなったが聖母のとりなしにより助かった女性の話など、中世の人々が伝えてきた伝承が詩歌として芸術的に語られます。本書が豊富な写本の挿絵と共に紹介するカンティーガを味わい、中世イベリアの信仰と芸術に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
石川雄一(教会史家)
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