慈母観音菩薩立像

慈母観音菩薩に思いを寄せた人々


太田徹宗(臨済宗妙心寺派 福善寺住職)

長崎の西海に浮かぶ五島列島の島々の一つに、小値賀(おぢか)島がある。東京都千代田区とほぼ同じ広さを持ち、2000人強が支え合いながら生活を営んでいる。古代から人が住み続け、中国貿易の中継港、鯨漁等漁業で栄え、地形がなだらかなこともあり、耕地が多く1万人以上の人口を擁した時代もあったが、現在は超少子高齢化と農漁業が衰退しつつある離島である。

福善寺は、禅宗の一つ臨済宗のお寺で1441年開山と伝えられており、あと20年弱で600年の歴史を持つ。本尊は、聖観世音菩薩坐像で、境内には、海難事故の物故者供養のため、7メートルの高さの魚藍観音菩薩立像が建立されている。

当寺には、もう一つの観音菩薩像が伝わっている。高さ1尺2寸ほどの慈母観音菩薩立像である。青い衣に赤いマントを付け、左手に赤い前掛けをした幼児を抱いている。詳細の調査はまだであるが、江戸期のものと伝わる。昔より檀家ではない人々が、この慈母観音菩薩を拝むためだけに、参拝しにきていたと伝えられている。ルネッサンス期の宗教画で聖母マリアを描くときには、慈母観音菩薩像と同じ構図・色彩がされていたことからも、そういうことがあった可能性は大きいことが想像できる。

今は無人島になっているが、世界遺産に指定されている小値賀島に隣接する野崎島は、古代から野崎地区だけに人が住み、未開拓地が多くあったことから、江戸時代大村藩の外海から開拓のために移住してきた潜伏キリシタンが野首地区と舟森地区に住み着いた。小値賀島には、潜伏キリシタンが移住しなかった。それは中世から松浦氏の本拠地であり、多くのお寺があり、仏教徒の島だったことの要因があったのではないかと推測している。しかし、小値賀島の地之神島神社と野崎島の沖之神島神社が海を挟んで向かい合っていることからも、隣接する両島の人的交流は強いものがあったようだ。野崎島住民と親戚関係にあった当寺の住職もいたことがわかっている。弾圧時代、当寺に潜伏キリシタンの方を匿ったという話が伝わっている。

西海に浮かぶ島々で構成されている五島列島の島々に住む人々は、その精神的な拠り所は違えども、互いに和合し支え合いながら生活を営み、時代を紡いできた歴史を持つ。

現代においても、関東等日本国内だけでなく、海外からも参拝に訪れるカトリック信者の方がいる。

時代を超え、人種・宗教に拘らず人が人として、互いに慈悲の心を持ち、支え合える交差点として、日本の端の離島にある当寺がその役割を果たしていけるとすれば、幸いなことである。今後もあらゆる人々の心の安らぎ場となれるよう精進していきたいと思っている。

 


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