酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)
蒔きもせず 紡ぎもせずに
安らかに生きる
こんなに小さな命にでさえ
心をかける父がいる
友よ 友よ今日も 賛えてうたおう
すべてのものに しみとおる
天の父の慈しみを
(典礼聖歌391番)
前回に引き続き、安心とは何かということについて考えてみたいと思います。
冒頭で歌詞に引用した「ごらんよそらの鳥」は、私の好きな聖歌です。ミサの中で初めてこの歌を聞き、マタイによる福音書6章とリンクしていると知ったとき、「まさか、この聖書の箇所から、こんな歌が!?」と、かなり衝撃を受けました。
そんなマタイによる福音書6章30節には「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」と書かれており、今にも殺されそうな、まるで死刑執行前の絶体絶命な状況にあっても、神の善性を信じるという究極的な場面が描かれています。どんなに追い詰められて命の危機にあっても、前向きに一歩一歩生きること。それは、明日には死ぬかもしれない状況にあっても、神は救いの希望の光を与えてくれると望みをおくことです。そこには神を信じて委ねる強さと、神が共にいるという確かさの中に永遠のいのちがあることを深く感じます。
さらに、32~34節では、次のような御言葉が続きます。
しかし、本当に天の父は私たちに必要なものがわかっているのか、と不安になるときもあります。私たちが生きるために、明日を生き抜くために、何が必要なのだろうか。どうして天の父にはそれがわかるのだろうか。それは、「その方がわたしたちの父であるからという理由だけで、私たちに心をくばっている」からです。だからこそ、なぜか不思議と安心できる言葉となって、私たちに届いているのです。
結局私たちにできることは、神は善なる方であると信じ抜くことだけなのかもしれません。義である神の善性を信じ、委ねること。もがきあがき、出来る限りのことはやり尽くして、あとはおまかせするしかないこと。たとえ様々な試みに日々遭遇したとしても、相手は全知全能である上によきお方なのだ、と信じること。今は何事も上手くいかないだけで、その先にはきっと、何かしら恵みがある。今は見えなくても、わからなくても、いつかわかる日が来る。そうやって、信じて生きることが大事なのでしょう。
しかし、そんな信仰生活は、いいことだけではありません。信じているからこそ、出会う試練もある。人間は何度も試みを受けます。その中で、神は私たちに何を望んでいるのだろうか、なぜ私は苦しむのか、なぜ神を信じていても、悲しいことは無くならないのだろうか、といったことを考えます。
地に恵みの雨を降らせ
鮮やかに映える
どんなに苦しい悩みの日にも
希望を注ぐ父がいる
友よ 友よ今日も 讃えてうたおう
すべてのものに しみとおる
天の父の慈しみを
(典礼聖歌391番)
これは「ごらんよ空の鳥」の2番の歌詞です。神の義は人間の行為ではなく神からの一方的な恩恵であるといいますが、まさにこの歌詞はその言葉を明確に説明しています。ただ、人間はその恩恵を受取ることしかできないこと。それは、私にとっては洗礼でした。私にとって洗礼は自身の努力ではないものの、確かな救いの契約でした。あのときに私が神の愛に応答せずに、洗礼を受けていなくても、周りの大学や教会の仲間から助けてもらえたかもしれません。でも、あの瞬間に私が信じたこと、応答したこと、神と共同体と結んだ契約が、私をここまで生かしてくれているのだと、今では強く信じています。
そして洗礼を受けるとき、私は「この不安がなくなってほしい」と願いしました。もちろん不安が全くなくなったわけではないのですが、その後に多くの対処法が与えられ、その願いは成就したと言えます。
――無理解があったから、理解されて嬉しかった。孤独だったから、共同体があって嬉しかった。食べ物で困ったことがあったから、他者の手料理が好き。友人がいなかったから、友人がいて嬉しい。神を知らなかったから、神に出会えて嬉しかった。愛を知らなかったから、愛を知って嬉しかった。
私にとってキリストの教会は、いつも大事なものを教えてくれました。お金や名誉、地位だけではない世界がこの世にはある。その世界の中でやっと「神と共に生きることが、安心できる」という意味がわかってきました。たぶん、私ひとりの人生や知識だけだったら、決して触れることが出来なかった、大きな物語がある。大きな河があり、大きな空がある。
今、私は不思議な優しさと愛に包まれている。それは、気のせいではない。福音がこの世界には隠されていて、神の民と共に祝う生活がある。教派を超えた教会の交わりがあると信じている。あなたが神を信じているから、私もその神を信じている。ただそれだけ。
一体、神の民の旅は、教会の旅はどこに向かっているのだろう。終わらない戦争、弾圧、怒りと悲しみ。人間の尽きない欲望。その中で、神の民の共同体は、何を探しているのだろうか。旅する教会が行き着くその先には、何があるのだろうか。正義が人を傷つけることもあれば、願われる正義が行われないことの方が多い。時には天の父の慈しみが見えないときもある。でも、雨上がりに虹がかかるように、私たちには何か、触れることのできない救いの約束が確かにある。その道の先には、何があるのだろうか。
前回の「前編」(2021年12月17日更新)から、この「後編」までの間に、約半年以上が経過しています。書けなかったことには、色々な理由があり、悩みがあったことも事実ですが、自分の信仰生活を書き語ることが出来なかった程に壁にぶつかったわけではなく、ただ単に忙しかったという理由もあります。しかし、それも言い訳のように感じます。去年の12月前後に多くのものを失い、その傷があったことも確かですし、それが半年経過し少しずつ癒えてきたことも事実です。ちゃんとイエス・キリストが共にいて、共に傷を負ってくれたこと。教派を超えた信仰の家族に励まされたこと、多くの赦しと愛を得たこと、ただそれだけなのだと思います。どうしても言えないことも、どうしても耐えられないことも、何故かだんだんと、それらを言葉にすることも、整理することもできることは、人間の力を超えた聖霊の力なのだと信じています。闇に落ちるほどの絶望ではなくても、私は本当に、神の愛の深さと偉大さを知るに至りました。
罪と赦しを繰り返す日々の中で、私は今でもずっと、ずっと教会を好きでいたいと今も思っています。でも、本当につらかった。ただそれだけです。