心に刻まれたタトゥー:無限大のいつくしみの力2


本連載は、イエズス会のグレゴリー・ボイル(Gregory Boyle)神父(1954年生まれ)が、1988年にロサンゼルスにて創設し、現在も活動中のストリートギャング出身の若者向け更生・リハビリ支援団体「ホームボーイ産業」(Homeboy Industries)(ホームページ:https://homeboyindustries.org/)での体験談を記した本の一部翻訳です。「背負う過去や傷に関係なく、人はありのままで愛されている」というメッセージがインスピレーションの源となれば幸いです。

 

ギャング出身*の親しい仲間たちにささげる(*訳注:「ギャング」とは、低所得者向け公営住宅地等を拠点に、市街地の路上等で活動する集団であるストリートギャングを指します。黒人や移民のラテン・アメリカ系が主な構成員です。)

 

グレゴリー・ボイルGregory Boyle(イエズス会神父)

訳者 anita

序 ドローレス・ミッションとホームボーイ・インダストリーズ(産業)(Homeboy Industries)について 1

 1984年と1985年の夏、私は助任司祭としてドローレス・ミッション教会で過ごしました。この教会は、ロサンゼルス大司教区(大司教区:カトリック教会の大司教の管轄地域として設定された単位)で最も貧しい小教区(大司教区内の各教会)でした。そして1986年に同教会の主任司祭(責任者)となりました。実は元々、私はサンタ・クララ大学の学生課プログラムの運営担当として派遣される予定でしたが、南米のボリビアがすべてを変えました。1984年~1985年の間、ボリビアが私をどう感化したのかをうまく説明できませんが、とにかく私を一変させました。そしてそれ以降、「彼らとともに歩みたい」とただそれだけを願うようになりました。これは私の大きなわがままでした。貧しい人々が、私に福音をもたらしてくれる何か特別な供給システムの持ち主だと知っていました。ですから当然、私は彼らのそばにいたかったのです。「貧しい人と一緒に働きたい」という自分の希望を管区長に伝えると、サンタ・クララ大学ではなく、小教区の史上最年少の主任司祭としてドローレス・ミッション教会に派遣されたのでした。ドローレス・ミッション教会は、ボイル・ハイツ地域に建てら

サンタ・クララ大学

れてから40年ほど経ち、ピコ・ガーデンズとアリソ・ビレッジという2つの大きな低所得者向け公営住宅地のど真ん中にあります。この2つの公営住宅地を併せると、ミシシッピ以西で最も大きな公営住宅地です。私が派遣された当時、ラテン系が7つ、アフリカ系が1つの合計8つのギャングが活動していました(公営住宅地の住民の内訳を見ると、1986年当時はアフリカ系アメリカ人が25パーセントを占めていましたが、現在では99.9パーセントがラテン系です)。当時、ピコ・ガーデンズ地区とアリソ・ビレッジ地区は、ギャング活動が市内で最も集中する場所として知られていました。もしロサンゼルスが世界のギャングの首都であったならば、地図上では切手サイズのこの小さなエリアが、ロスのギャングの首都だったということになります。1988年、ギャングの抗争で亡くなった若者を私は初めて埋葬しました。その後、本書執筆中の現在までにさらに167回、この悲しい役割を果たしました(訳注:インターネット上で公開中の2020年時点の著者のインタビューによると、埋葬した若者の数は250名超まで増加)。

 

 私が最初に埋葬した子は、18歳の双子の少年でした。家族でさえもこの双子の兄弟を見分けるのが難しいほどでした。葬式の時、ビンセントは、兄弟ダニーの棺の中をのぞき込みましたが、2人とも格好がそっくりでしたので、それはあたかも、鏡を下に向けてビンセントが自分自身の姿を見つめているかのようでした。こうしたたぐいの葬式は、私にとって初めての経験だったため、青年が自分とうりふたつの姿を見つめているその光景は、何十年も経った今でもはっきりと覚えています。これは、ギャングの抗争が自滅行為であることを象徴する姿です。

 

 当時、学校から「追い出された」ギャング所属の中学生が大勢いたため、授業時間中に公営住宅地区内をうろつく彼らが原因の暴力や大規模なドラッグ取引が横行していました。このギャングの現状を受けて、私の小教区のコミュニティが最初にやったことは、1988年にオルタナティブ・スクール(従来の伝統的なカリキュラムとは異なるカリキュラムを採用した代替学校)の「ドローレス・ミッション・オルタナティブ」を立ち上げることでした。ドローレス・ミッションの小学校の3階部分(元修道院)に、様々なグループのギャングメンバーが集まってきました。ケンカは日常茶飯事で、スタッフの維持が課題でした。2日しかもたなかった校長や、最短1日で逃げ出した教師も何人かいました。

 

 この学校の登場によって、小教区に新しい雰囲気が生まれました。表玄関には、にわかにウェルカムマットが敷かれ、鬼は外、福は内ならぬ「悪人」は外、「善人」は内、というこれまでの隠居風情の隔絶した体制に換わって、開かれた態度で人を迎え入れる雰囲気の「教会」が新たに出てきました。「クリスチャン・ベース・コミュニティ(CEB)」は、主に小教区内の婦人たちから成るグループでしたが、実生活に影響を与える福音について真剣に考える人々でした。彼女たちは、熟考した結果、公営住宅地区内のギャングメンバーに手を差し伸べずにはいられなくなりました。「カルネ・アサダ(直訳:グリル肉)」と称するバーベキューやその他の集まりを催し、ギャングメンバーが自分たちの敵ではないとはっきり意思表示しました。CEBの一人は、行くあてのないギャング出身の若い子たちを招いて感謝祭のディナーを主催したくらいです。ギャングメンバーに発信したメッセージは、「生みの親であるかどうかに関係なく、あなたたちはうちらの息子や娘だよ」というものでした。

 

 ある日曜日の早朝、私は、教会から1ブロック離れた場所に、警察によって張られた「立入禁止」テープの外に立っていました。地面にはギャングメンバーが一人横たわり、体の一部がシートに覆われていました。彼の頭部と胴体はシートに覆われていましたが、カジュアルブランドのディッキーズ製のオーバーサイズの短パン、ひざ丈の白いチューブソックス、そしてナイキコルテッツの青いスニーカーという身なりで、これは当時のギャングメンバーのお決まりの格好でした。彼はこの公営住宅地区出身ではなく、なぜこの異国にまぎれ込んできたのかは知る由もありませんでした。コミュニティ内の活動家ママとして知られるパム・マクダッフィーは、私のそばに寄ってきて私の腰に腕を回しました。パムは泣いていました。「あの子が誰だか知らないけど、どこかの母親の息子だったはずよ」

 

 ほどなくして、ギャングメンバーが教会でぶらぶらするようになりました。車庫は、にわかトレーニングジムとなり、鐘ろうには、いつも10名余りのギャングメンバーがたむろし、タバコを吸いながら時間をつぶすようになりました。彼らが教会にいれば、コミュニティでトラブルを起こしていないことになると私は考えました。ただ、教会の信者が全員、これに賛成だったわけではありません。やがて不満の声があまりにも大きくなったため、小教区の会合を開かざるをえなくなりました。教会の信徒会館はぎっしりと埋まり、信者たちによって私の指導力が信任されるか、それとも私がお払い箱になるかのどちらかの局面を迎えました。

 

 私は黙っていました。ここは、コミュニティのオピニオン・リーダーとして一目置かれていたテレサ・ナバロとパウラ・ヘルナンデスが立ち上がり、皆にイエスを思い起こさせるだけで十分でした。「私たちの小教区でギャングメンバーを助けるのは、イエス様ならばそうするはずだからよ」

 

 一同は拍手かっさいし、それ以来、小教区の面々は後ろを一度も振り返ることなく進みました。

 

 婦人たちは、しばしば緊張が高まっていた時期や、やまない銃撃の後に、公営住宅地区内を練り歩く大規模なデモ行進を行いました。婦人たちは「平和推進委員会」を自称し、抗争が激しくなった地域に出向いて静かに祈って歌を歌い、戦闘モードのギャングメンバーたちをしずめました。

 

 そうしたデモの一つが、1988年にホームボーイ産業(Homeboy Industries)が誕生するきっかけとなりました(訳注:「ホームボーイ(homeboy)・ホームガール(homegirl)」や「homies」は、「チンピラ、ギャング」、「(同じ集団内の)友達」「仲間」の意味を持つスラング。軽蔑の意味を込めて使うケースもあるものの、著者は親しみを込めて使っています)。何百人の婦人たちは、「未来のために仕事を(Jobs for a Future)」と書かれた大量のビラを手に、公営住宅地周辺の工場に出向き、こうして圧力をかけながら各工場長にビラを手渡しました。ギャングメンバーが一番欲しがっているのは仕事だと明らかになってきました。彼らの話題は、就職のことばかり。工場から求人依頼が舞い込むのを待ちましたが、一向にやってきませんでした。とはいえ、「未来のために仕事を」という名称の団体が生まれ、これは当初、ピコ・ガーデンズとアリソ・ビレッジ出身のギャングメンバーの有給雇用を助けることを目的としていました。

 

 この小教区主導型プログラムによって、ギャングメンバーを大勢雇うプロジェクトが開始されました。チャイルドケアセンターの建設、住宅街の清掃、落書き除去、造園、メンテナンス担当です。ギャングメンバーたちは、数々の事業所や非営利団体で雇われ、「未来のために仕事を」団体が給料を支払いました。私は、国会議員よりもたくさんの不渡り小切手を発行し、常に綱渡り状態でした。お金は必要な時にいつもなく、なのに必ずきっちり時間どおりやってきました。

 

 この時期、私は休戦・停戦や和平合意の交渉に明け暮れていました。多くの時間を往復外交に費やし、ギャング間をチャリで行き来しながら、争っている派閥同士から署名入りの合意書を入手しました。その合意の中には、家の中を銃撃しないこと等、犠牲が多すぎて引き合わない勝利も含まれていました。

 

 どの派閥も、和平を持ちかけると最初とても前向きな反応を示すことに、私は早い段階で気づきました。

 

 「いいぜ、G(ジー)(皆は大抵、私のことをこう呼びます。グレッグをさらに略した呼び名です)、和平協定を進めようぜ」

 

 でも両者を同じ場所に集めると、どうしてもお互いがお互いの前で高圧的にふるまってしまうのでした。しばらくすると、こうした集まりを開くのはやめて、ソビエト連邦とアメリカとの間でそうであったように、和平協定の内容をあらかじめ全部決めて、それぞれの長に署名してもらうようにしました。

 

 これは当時の話です。今は別です。当時こうした停戦や協定の働きかけをしたことを後悔はしていませんが、もう二度としないでしょう。これら一連の取り組みの予期しない結果としては、ギャングたちの存在を正当化して酸素を供給したことがあげられます。こうした働きかけがギャングに活力を与えてしまう、とじきに気づいたのでした。

 

 1992年の混乱は、私がロサンゼルスで今まで見たことのないものでした。1965年にワッツ暴動事件(訳注:白人警官が黒人男性を逮捕したことをきっかけに発生した暴動)が起こった当時、小学6年生だった私にとって、この暴動は「あっち」という限定的な場所で起こっているという感覚でした。

 

 1992年の時は、そうではありませんでした。黒い煙が立ち込め、市内の空をすみずみまで覆いました。私は、ピコ・ガーデンズ内のあるアパート前の階段に、大柄なギャングメンバーのボスと座っていました。彼は、仲間たちには声の届かない所で、私の方を向いて「なあ、これって世の終わりだよな、G(ジー)?」と問いかけてきました。彼の声は震えて不安げでした。

 

 「まさか」と私は答え、彼を安心させようとしました。

 

 とはいえ、私も彼が間違っていると言い切れる自信がまったくありませんでした。混乱が発生してから数日後、私たちの公営住宅地区に州兵が到着しましたが、彼らはここには必要ありませんでした。ここで騒ぎが勃発すると誰もが予想していましたが、その予想に反し、ロサンゼルスで最も貧しいこの地域では暴動は起きませんでした。私が思うに、この公営住宅地区には戦略的に雇用された多くのギャングメンバーがおり、地区内で暴動が起きるのを防ぐことが彼らにとってもようやく理にかなっていたため、平和が保たれたのではないでしょうか。

 

 ロサンゼルス・タイムズ紙のインタビューで、私が暴動について上記と同じことを言ったため、レイ・スタークからお呼びがかかりました。レイは、ハリウッドで大成功を収めた代理人(俳優のハンフリー・ボガートやカーク・ダグラスを代理)であり、大ヒット映画(『ファニーガール』)のプロデューサーでした。当時、愛妻のフランを亡くしたばかりのレイは、拡大しつつあったこのギャング問題について影響力を及ぼしたいと思ったのでした。私が会いに行くと、レイから幾つかの提案を受けましたが、どれも丁重にお断りました。せっかくの提案の数々(一例:ドキュメンタリー映画を撮るために、ギャングメンバーにビデオカメラを装着してもらう)を私に叩きつぶされて、レイは業を煮やしたようでした。

 

 「まいったよ。では僕のお金をどう使えばいいって言うのだね?」

 

 そこで私は、通りをはさんだ教会の向かい側に、古いパン屋が売りに出されていると話しました。彼にそれを買ってもらえば、ギャングメンバーのライバル同士を集められると言いました。パン屋の名前は「ホームボーイ・ベーカリー」です。

 

 レイはこの話に飛びつき、「未来のために仕事を」の経済発展活動の支部を始めました。数ヶ月後、グランド・セントラル・マーケットでトルティーヤ製造機を1台「奪取」し、複数の事業を展開するようになったので、1992年夏、(「未来のために仕事を」から)「ホームボーイ産業」へと改名しました。

 

 私たちの初代オフィスは、教会の敷地内でしたが、続く2代目は、1994年から2000年までの間、1848イースト・ファースト・ストリートの店舗ビルでした。私のギャングメンバーとの活動を長年応援し続けてくれているホワイト・メモリアル病院が、賃料を負担してくれました。このオフィスにいた頃に、ホレンベック警察区内の40超のすべてのギャング(メンバー数は数万人)から、ギャング生活から足を洗う道を求めてメンバーたちが訪れてくるようになりました。もしかすると、ギャングメンバーは、どこか心の中でいつもこれを願っていたのかもしれませんが、行くあてもなかったため、その望みも腐ってしまったのです。私たちは、スタッフや就職あっせん担当者を増員して、民間セクターの働き口を探しました。タトゥーの除去を始めたのは、ラミロという男性がきっかけです。彼は、長年服役して出所したばかりのギャングメンバーで、おでこの全面に「クソったれの世界」と大きくタトゥーされていました。ラミロから、職探しがうまくいっていないと相談されましたが、マクドナルドの店内で、「一緒にフライドポテトはいかがですか?」と彼がたずねている最中に、お母さんたちが自分の子どもたちを抱えて店内からあわてて出ていく姿が浮かんできました。

 

 そこで彼をベーカリーで雇い、彼の額のタトゥーを徐々に消していきました。その後もたくさんのレーザー機や医師を使い、今や年間4,000件に上る施術を行っています。

 

 これもすべてラミロのおかげです(その後、彼は転職して映画館の警備員となりました。もはや怒り狂っていた頃の姿はみじんもありません)。

 

 ホームボーイ産業では、さまざまな事業が入れ代わり立ち代わり生まれてきました。事業の立ち上げと中止をたくさん経験しましたが、取り組む価値のあるものは、失敗する価値もあるものです。ある時、ホームボーイ配管工事を始めましたが、これはあまりうまくいきませんでした。驚いたことに、人々はギャングメンバーを自宅に入れたくなかったのです。これは完全に予想外でした。

 

 新世紀を迎えるにあたり、手ぜまとなっていたので、3代目のオフィスとして1916イースト・ファースト・ストリートの印刷工場を再利用することになりました。しばらくすると、ボイル・ハイツ外のギャングメンバーも訪れるようになり、45種類の郵便番号の住所から毎月1,000名もの人が訪問してくるようになりました。ロサンゼルス郡全土の800以上のギャングのメンバーが、働き口、タトゥー除去、心のカウンセリング、ケース・マネジメント、法律支援サービスを求めて来訪してきました。

 

 2007年には限界を迎え、はちきれんばかりになっていたので、本部、ホームボーイ・ベーカリーとホームガール・カフェを、チャイナタウン近くに位置するロサンゼルスの下町の現住所に移転しました。私たちの事業の中で最も成功しているのは、ホームボーイ・シルクスクリーン(印刷)ですが、ルービンとクリスティーナ・ロドリゲスによって長年巧みに切り盛りされています。そのほか、ホームボーイ・ベーカリー、ホームボーイ/ホームガール・マーチャンダイジング(グッズ販売)、ホームボーイ・メンテナンスとホームガール・カフェの4つを運営しています。このうちホームガール・カフェでは、前科持ちの女性たち、ライバル同士のギャング出身の若い女性たちや生意気なウェイトレスが、お客さまの注文を喜んでお受けします。

 

 ロサンゼルス郡には、86,000名近くのメンバーを擁する1,100に上るギャングが存在します。これら若者の大多数は、「足を洗う」用意ができた時、ホームボーイへの行き方を知っています。

 

 ホームボーイ産業は、助けが必要な人ではなく、助けを求める人だけを対象としています。その意味で、私たちは、ギャングのリハビリセンターだと言えます。私たちを訪れる若者の多くは、表社会で活躍する準備ができていません。出所間もない彼らには、(多くの場合)生まれて初めてとなる仕事を与え、毎日時間どおりに出勤すること、そりの合わない上司の命令に従うことといった常識的な態度を、ホームボーイ産業で身に着けます。

 

 私たちは、これらのサービスをすべて無料で提供します。私たちは、職場であると同時に、いやしのコミュニティです。また、職業訓練プログラムや事業でもあります。これらすべてを同時にこなします。ギャング出身の子たちは、勤務場所で自信がついたら、もっと給料の高い所に転職していけます。あと私たちは、彼らに敵と働く機会を与えます。ホームボーイ産業は、ギャング世界の「国連」です。敵同士が一緒に働くことで、街中の争いを「断ち切る」貴重な効果があります。現役で活動するギャングメンバーは、働いているメンバーに向かって、「なんでアイツなんかと一緒に働けるんだ?」と質問せざるをえなくなります。この問いに対する答えは、ぎこちなかったり、しどろもどろになったりしますし、そして必ず勇気が必要ですが、問いかけそのものが、現状を揺さぶることになるのです。

 

 最後に、ホームボーイ産業が雇用して支援できるギャングメンバーの人数は限られています。今まで支援を受けた人は数千人にも上りますが、結構な深さのバケツに入った水のほんのわずかな一滴のままに過ぎません。ホームボーイ産業は、ロサンゼルス市内で、建設的な支援の場として運営するだけでなく、そのシンボルとしての役目をも果たしてきました。つまり20年以上、市に対し、「この問題の解決法として、ただ収監するのではなく、ギャングメンバーに投資してみたらどうだろう?」と問いかけ続けてきました。

 

 20年を経て、ロサンゼルス市は、ホームボーイ産業を自分たちの一部として受け入れ、私たちが、この「現状」をどのように見て、それに対して私たちが少しでも対応できる方法を形づくることを認めてくれました。

 

 ある時、ホームレスとなり、ヘロイン中毒に陥っていたギャングメンバーのデビッドは、自分を責め続けていました。

 

 彼に助け舟を出すために、「いいかい、デビッド」と私は話しかけました。「歩けるようになるには、まず地面をはわないといけないし、走れるようになるには歩かないといけないもんなんだよ」

 

 デビッドの目に涙が光りました。「おう、しかもオレは空を飛べるって知ってるんだ。ただ、風がひと吹き必要なだけなんだ」

 

ホームボーイ産業は、そのひと吹きの風になることを目指しています。

 

 「私たち人間が犯すことのできる最悪を目の当たりにし、そして自分自身のしみに身ぶるいするときこそ、畏敬の念が思考の殻を打ち破ってこころに入る」(米国の詩人デニース・レヴェルトフ)

 

TATTOOS ON THE HEART by Gregory Boyle

Copyright © 2010 by Gregory Boyle

Permission from McCormick Literary arranged through The English Agency (Japan) Ltd.

本翻訳は、著者の許可を得て公開するものですが、暫定版です。

 


心に刻まれたタトゥー:無限大のいつくしみの力2” への1件のフィードバック

  1. 日本も貧富の差が大きくなり生活に苦しむ人が増えています。 
    社会の在り方が子供たちの生き方に映っていく。
    互いに自分の弱さを表さずに強気で戦う姿勢をとるのは生きる術であり、
    本当の自分をさらさないことが唯一生きていくことと学んだ子供たちの心を
    焦らずに少しずつ少しずつ溶かしていく姿に感動を覚えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

two × five =