ありのままで 詩篇139篇23~24節


佐藤真理子

神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。

(詩篇139:23~24)

詩篇を読むとき驚かされるのは、「こんなことも神様に言っていいんだ」という新鮮な驚きではないでしょうか。例えば、冒頭にあげた箇所の直前、詩篇139:19~22は、以下のような文章となっています。

「神よ どうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ 私から遠ざかれ。彼らは敵意をもってあなたに語り あなたの敵は みだりに御名を口にします。主よ 私はあなたを憎む者たちを 憎まないでしょうか。あなたに立ち向かう者を 嫌わないでしょうか。私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。」

聖書にあるのは綺麗ごとだけではありません。また聖書は、人の持つあらゆる感情を否定しません。上記のような事を神に吐露することを、聖書は肯定しているのです。

私が神学生だった頃、神学校の寮では毎朝祈祷会があり、そこでは祈りの前に聖書を読んで全員で聖書から自分が受けたものを分かち合う時間がありました。毎日そのようなことをやっていると、時には聖書を読んでも何も思い浮かばなかったり、あるいはその場では言いにくいことしか浮かばないこともありました。そこにはある種の空気感があり、そういったことに疑問を呈す人も「今日の個所からは何も思いつかない」と言う人も私を含め誰もいませんでした。次第に祈祷会の聖書を読む時間では、聖書の言葉を味わうよりも、その後の「分かち合い」に備え「それっぽい」言葉を探すようになりました。今考えると、自分は何て意味の無いことをしていたのだろうと思います。

キリストは、自分は正しいと信じている人に向けて、宗教的に良いとされることを全て行い誇りに思っているパリサイ人よりも、自分が罪人であることを心から認めて祈った取税人を神が義としたことを語っています。

(ルカ18:9~14)

神様は、上辺をとりつくろって綺麗に見せることよりも、ありのままの姿を認めることを喜んでくださいます。

私はこれまでいろいろな教派のキリスト教の集まりに参加しましたが、それぞれの場所で「こうあるべき」というものがそれぞれあるので、そこからはみ出した意見はなかなか語りにくいものがあるのを感じました。また、教会教職者など、教会に深くコミットしている人ほど、「こうあるべき」という姿が固まってしまい、ありのままの自分の姿を見失うことがあるのではないかと感じることがありました。そういった価値観に染まった家庭で育った方々も、本当の自分の気持ち以上に、周りが良しとするものを優先するあまり自分を見失っているのではないかと危惧する場面が何度もありました。キリスト教がカルト化してしまうのは、こういったことが起こり始めた時だと思います。長く一つの集団にコミットすると、人は自然にそこでのふるまい方、話し方を身に着けてしまうことがあります。子供のころからそこにいれば、なおさらです。そのような環境にいると「こうしたい」という本当の思いと「こうしなければ」ということにずれが生じたまま気づかないことは多いのではないかと思います。本当の自分の姿を見失うと、押さえつけ見ないふりをしている問題によって、そばにいる人を傷つけてしまうことがあります。それがさらに深く大きな問題に発展してしまうこともあります。家族や教会など、一つのコミュニティで重要なポジションを担っている人にそのような性質があると、その集団自体が病んでしまうこともあります。

聖書は人が他の誰かであることを良しとしているのではありません。一人一人の人が神のユニークな作品であり、特別な光を放っていることを語っています。人が他者からの評価を求めるあまり自分を見失うのを神は悲しむのです。

完璧な人はいません。完全な人はいません。人は皆罪人であり、多かれ少なかれ誰しも問題を抱えています。聖書は、問題があることよりも、ありのままを偽り問題を見て見ぬ振りすることを不健全であるとします。どんな立場の人であっても、問題があることを恐れなくても良いのです。完璧な自分、条件付きの自分にのみ価値を認める場合、問題を認めることは大きく自分を揺るがすので、難しいかもしれません。聖書は私たちに、そういった外的な要因ではなく神に作られた特別な存在であることにアイデンティティを持つよう語っています。問題の有無はその人の価値を揺るがすことではありません。

また、聖書は傷つけられた人の怒りを否定することもありません。そうでなければ詩篇139:19~22のように、傷つけられた人の相手を憎いと思う気持ちが聖書の言葉となっているわけがありません。そういった気持に無理やり蓋をすることはないのです。ありのままの気持ちをすべて偽りなく神にさらけ出すことを、神は喜ばれます。神に心を閉ざしていては、それはできないことだからです。神に心を開けば、自分の中の問題に、神が介入することができます。神にはすべてを益とする力があります。神に重荷を明け渡し、神によって問題を解決すれば、問題が起こる前よりも素晴らしいことが起こります。それが聖書の原則です。

神に対しては空気を読まないこと。神には心を偽らず、ありのままの自分を認めること、神はそれを喜んでくださいます。心の中の暗闇を、神の光で照らしましょう。詩篇139:23~24の言葉を祈りとして生きることで、神の光が私たちの心を照らします。

神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。

(詩篇139:23~24)

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

13 − 1 =