わたしの信仰生活日記ー神の存在証明ー(9)セカイガウタウ(前半)


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.うたがあること。

「<U>はもうひとつの現実」
「Asはもうひとりのあなた」
「ここにはすべてがあります」
「現実はやり直せない。でも<U>ならやりなおせる」
「さあ、もうひとりのあなたを生きよう」
「さあ、新しい人生を始めよう」
「さあ、世界を変えよう―――」

これは先月公開された映画『竜とそばかすの姫』の冒頭の台詞です。

「―――現実と限りなく近接する、この<U>という世界の中で、あなたは何を望むのですか。」

この映画には、<U>という名の仮想空間が出てきます。そこで人々は「As」と呼ばれるアバターを用い、全世界の人間がリアルタイムで出会い、交流することができます。この<U>のような世界を楽しめるゲームの一つに『フォートナイト』というオンライン・ゲームがあります。バトルロイヤルゲームとして人気の高いゲームですが、ゲーム中でライブ・コンサートや映画を楽しめるモードもあり、2020年8月7日には米津玄師がオンライン・ライブ・コンサートを行って話題になりました。映画の主人公・すずのアバターである歌姫・ベルが行ったような仮想空間でのコンサートも、今は現実に再現することが可能なものとなっています。

昨今は作曲や歌手デビューといった音楽活動をしたいと思ったら、オンライン上で簡単にアップし、全世界の人に公開することが可能です。今まで才能があってもなかなか世に出るチャンスがなかった人にも、平等にチャレンジする機会が与えられたと言っても過言ではないでしょう。私は色々とコンプレックスの強い人間なので、すずのようにアバターの姿で歌が好きという気持ちを表現できることに、一種の憧れのようなものがあります。

本人が思い描く人生に向かうこと、自分の固有の賜物を発揮すること、それを周りが育てること。それらは人間がより良く生きるために大切なことですが、現代はこのような自己実現にこそ生きる意味があるという雰囲気を感じます。ただ、この物語は単にそれだけでは終わらず、すずが自分の過去の傷に向かい合い、誰かのために行動する勇気も与えられるという点で、心を震わせるものがあります。

すずは<U>の世界を荒らし回る「竜」と呼ばれる存在のために行動します。二人は少しずつ心を通わせていきますが、竜を敵と見なした「自称正義」の人たちが竜の正体を暴き、排除しようとします。最終的に、すずが竜の正体にたどりつき、現実世界で直接言葉を交わすのですが、私としては本当に「悩み」が解決したのか、疑問の残る終わり方でした。例えば、「子供の虐待」という問題が出てきますが、現実世界で苦しんでいる人にとって、オンライン・ゲームの空間は精神的な逃げ場所になるのか。アバターが持つ匿名性を暴き、直接会うことができたとしても、それが長期的・具体的な解決に結びつくのか。

――それは、この「現実」では絶対に出来ないこと、不可能なことなのか。「もうひとりのあなた」でなければ、実現できないものなのか。別の人間として生まれ直さないと、この現実の肉体では絶対にやり直せないものなのか。もうひとりの自分にならないと、新しい人生を始めないと、その世界は変わらないのか――。そういう疑問です。

IT技術を通してどんな世界にひらかれる手段が与えられても、それだけで人間が抱える具体的な問題が全て解決するわけではありません。中毒的に<U>に常にアクセスする人が必ずしも健康的であると思えない側面もあります。確かに、自分の才能を開花することは、人生における喜びなのでしょう。日本では評価されることが難しくても、海外では評価され、よりよい成長方法を知ることもあると思います。そして、そのような交わりの中で、自分がこの世界に存在する意味や意義を深めることはできるのでしょう。また、仮想現実での体験が現実世界への認識を変え、その成功体験から人生が変わるという映画のメッセージには、大きな意味を感じます。カトリック教会では「連帯」という言葉を大切にしていますが、これもある意味連帯の新しい形なのかもしれません。

 

2.教会と音楽。

歌姫・ベルというキャラクターが登場するように、この映画では「音楽」が大きな魅力・キーワードの一つとなっています。私は以前ルーテル学院大学の聖歌隊に所属していたくらい歌が好きですし、教会と音楽は切り離せない存在です。

うた。
なぜひとは、歌うのでしょうか。

カトリック教会には、ミサで歌われる典礼音楽があります。グレゴリオ聖歌や各種の聖歌集や「あわれみの賛歌」「栄光の賛歌」「感謝の賛歌」「平和の賛歌」など、さまざまなものがあります。第二バチカン公会議以後に特に顕著になりましたが、その特徴は会衆を含め、皆で神をたたえ歌うことにもあります。そこには、教会内での一致が生まれますし、神につながる聖性も感じさせるものに満ちています。神に向かい、共同体として歌うという行為には、教会の共同体性も示す大きな役割があります。誰かがソロで歌うだけではなく、皆が共に参加することで、共に祈ることができるのです。

私はルーテル教会の式文や教会賛美歌なども好きですが、カトリック教会のミサに出会ってからは、そこで歌われるミサ曲もだんだんと覚えていきました。日本基督教団や福音派の歌などのプロテスタント教会の賛美歌も、その時々で様々な歌に出会い、初見で歌うことも少なくありません。膨大な賛美歌がこの世界に存在するからこそ、知らない歌に常にエンカウントする楽しみがあります。今は新型コロナウイルス感染拡大のおそれがあり、なかなかミサで集うことも歌うこともできませんが、いつかはまた皆で集い、安心して共に神を礼拝する日が戻ってくると信じています。

「うたがある、こと」。教会はライブ会場でもなければ、ただの集団でもありません。そこには、神を中心とした交わりがあり、ただ歌に感動するだけではなく、神の愛が表現され、魂が響き合う願いを越えた現実が臨在するのです。そこには、聖霊の働きと呼ぶことができるような、肌で感じ、心で感じるような、あたたかい人間同士と神との交わりがあります。ずっとその中で育ってきた私は、これからも、その中で生き続けるのでしょう。

そう。共同体と、交わり。響き合う空間と人間の中で。

 

今回は初めて、前半と後半に分割するスタイルとなりました。
また次回も、読んでいただけたら幸いです。

 


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