石井祥裕(AMOR編集部)
先日、あるキリスト教書店に立ち寄ったとき、「ワイン」という言葉がタイトルにつく三つの本が目に飛び込んできた。
一つは、『聖書の中のワイン』サムエル・バキオキ著、新名友子訳(新教出版社 1995年)、「アルコール性飲料の使用についての聖書研究〔要約版〕」とサブタイトルがあるもので、趣旨はアルコール性飲料に対する反対論、キリスト教における禁酒の回復を願うための研究となっている。ワインというもの、聖書とワイン、イエスとワイン、使徒教会とワインなどが論及されている。
もう一つはドイツ文学者・内藤道雄氏(1934年生まれ)の著書『ワインという名のヨーロッパ ぶどう酒の文化史』(八坂書房 2010年)だ。地中海世界(古代ギリシア、新約聖書、古代ローマ)、ヨーロッパ(修道院とワイン、ブルゴーニュとワイン、ドイツとワイン、イギリスとワイン)の歴史をぶどう酒の視点から鳥瞰している。表紙も美しい。
さらに『ワインと修道院』デズモンド・スアード著、朝倉文市・横山竹己訳(八坂書房 2011年)という本もあった。
日本でもワインが愛好されるようなった現在、その背景に、西洋文化全体、そして特に修道院文化が関係しているというあたり、大変興味深い事柄なのだが、筆者に割り当てられた主題――キリスト教典礼と酒という点に関して、こうしたマテリアとしてのワイン論は、なにか事の本質からずれていくようにも思えてならなかった。
キリスト教典礼にもワインはつきもので、いわゆるミサ・ワインって、どんな種類、どんな色、ということに関心が赴くかもしれない。ミサ典礼書の総則322には、ミサで使われるぶどう酒について、ぶどうの実から作られた天然純清酒であること(他の成分が混入されていいないこと)が規定されているだけで、それ以外、色の指定などもあるわけではない。
最近は、もちろん、アルコールが合わない人、問題となる司祭のために補完措置も認められているという現状もある。それでも、やはりぶどうの実から作られたもの(ルカ22:18参照)というイエスの定めの核心を守り続けることが教会の伝統となっている。日本酒や梅酒というわけにはいかない。
しかし、繰り返すが、そのように、ワインのマテリアに関心を向けるだけでは、どうも、というか、まったく典礼のことが見えてこない。酒が人間のもの、飲むものとされるために必須な器、杯のことを忘れるわけにはいかないのではないかな、と(グラスでも、コップでも、碗でもよい。液体の飲料を飲むための道具のことである)。
笑い話に聞こえるかもしれないが、長年ミサに参加するなかで、「このパンを食べ、この杯を飲み」という聖歌のフレーズ(もちろん、そのもとにはパウロのⅠコリント書11章26節の文言がある。「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」)を耳にするたびに、「おい、おい、杯をどうやって飲むんかい?」と一人つっこんでいた。「杯で」あるいは「杯から」ぶどう酒を飲むんだろうに、と。どうして、杯が前面に出てくるのかな、と。
ミサの中で、たしかに、「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの」という祈りがあって、「ぶどう酒」が表に出てくるときもあるが、いわゆる主の晩餐の制定のことば(つまり奉献文の中の聖別のことば)では、「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」という中に、「ぶどう酒」ということばは出てこず、「血の杯」という言い方になる。
ぶどう酒の入っている杯なので、どっちも不可欠だが、このような文言からも、ぶどう酒というマテリアと同時に、それを飲むための道具、杯のことも考えなくてはならないのでは、と思わされてならなかった。土台にある新約聖書の記述(マタイ28:27-29;マルコ14:24-25;ルカ22:20)でも、「ぶどうの実から作ったもの」という言及と同じぐらいに「杯」への言及も目立つからである。
パウロの他の文脈のことばに、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(Ⅰコリント10:16)というものがある。ここに大切なヒントがある。パンはただパンであるということだけでなく、裂かれて渡されるパンだというところに意味がある。それと同様に、杯でもって渡されてぶどう酒が飲まれるところに意味がある、ということが言われているようなのである。それがキリストの体と血にあずかること、すなわちキリスト自身と交わることなのだ、と。
ということで、キリスト教典礼と酒の関係を考えるとき、案外「杯」というファクターが重要になってくる。杯がなければ、酒は飲まれるものとして実現されないし、酒がない杯もたんなる物質に過ぎない。酒が入った杯にして、はじめて意味がある。杯が語られる中で、酒が飲まれるもの、飲み交わされるものとして現れ、飲むこと、飲み交わすことから生まれる飲み仲間にまで意味が広がっていくのである。
しかも、聖書では、それが単に水平的、という人間同士の間のことではなく、第一には、神と人の関係のシンボルである。ということで、各種聖書事典類をひもとくだけでもヒントが満載である(『旧約新約聖書大事典』『新聖書大辞典』『聖書思想事典』など)。詳細レポートは略すが、キリスト教生活につながる一つのポイントは、杯が神の意志の配下にある人間の命運や裁きの象徴として語られるというところにある。
詩編75:8-9「神が必ず裁きを行い/ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています」が鮮やかである。自分の命運が神の手にあることが、「杯」に譬えられている。詩編16:5には「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方」といった文言がある。神が「わたしの杯」とまで言われる!
そして、信仰を失った者にくだる罰は「憤りの杯」(イザヤ51:17)、「怒りの杯」(エレミヤ25:15参照)とイメージされ、心から救いを神に求め、神のあわれみを受けた人は「救いの杯」(詩編116:13)をささげる。神に生きる喜びの象徴として「杯」が語られ、この表現はキリスト教において大切にされるようになる。
こんな杯のイメージは、もちろん、イエスにおいてピークに達する。受難の始まりの中で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42のオリーブ山での祈り。ほかに並行箇所マタイ26:27-28;マルコ14:36ではゲツセマネでの祈りでも同様)と祈るイエスのことばの中の杯。逮捕の瞬間に切りかかったマルコスをいさめることば「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)と語られるときの杯は、神から与えられた命運、試練である受難の隠喩となっている。
主の晩餐の制定のときに、ぶどうの実から作ったもの(ぶどう酒)の杯に自らの血のこと、新しい契約のことを託すイエスのことばには、聖書における「ぶどう」の象徴論とともに「杯」の象徴論も流れ込んでいると考えると、とても深くなる。それは、それまでの意味合いを凌駕するほどの「救いの杯」で「新しい契約の杯」である。これが、ミサでのぶどう酒の姿であるし、杯の姿でもある。第二奉献文でいつも耳にする「いのちのパンと救いの杯をささげます」ということばには簡潔ながら、両方の象徴論が合流しているというべきだろう。
典礼書の中では、カリス(ラテン語の杯)の扱いがとても注意深く記載されている。その意味するところの重さに気づいているからである。とはいえ、それは実践上のことで、ぶどう酒と杯の両方のシンボル論を含めての典礼への考察や思索はまだ足りないようにも感じられる。ぶどう酒のマテリア、アルコール性をめぐる論議の比重も変わってくるのではないかという気もするのだが……。
杯だけに関心を向けると、それは、美術工芸の歴史の一面を築き、材料、形状、製造方法をめぐって古今東西、人類史とともに多様な展開している。そこにも伝統と継承の営みがある。聖杯をめぐる伝説も有名。漢字の「爵」も杯のことで、皇帝の臣下の位を「爵」で区別したところから「爵位」(子爵、男爵、公爵など)が生まれたという。ヨーロッパの中世でも事は同じだったという。
サッカーをはじめとするスポーツ競技の世界選手権はワールドカップと呼ばれ、新聞紙上でも「W杯」という語が乱舞する。勝利のしるしが「杯」なのは相撲でもそう。杯が栄誉・誉れの象徴であるとすると、それは、キリスト教典礼の杯の意味合いにも多少とも関係してくる。日本の仁義の世界、「兄弟盃」「契りの盃」の経験は、新しい契約の杯の意味合いにも思いを向けさせよう。神棚、仏壇の杯ももとより、酒と杯の複合的な象徴論は、諸民族の社会、文化、宗教の中に深く根を張っている。
今、好きな酒や飲み物をもって行うオンライン飲み会。画面越しに掲げ合う様子も、そんな杯文化の新しいかたちかもしれない。何らかのかたちで命運をともにする仲間がたえず生まれている。ウィズコロナの時代の飲み会が今後どのように展開していくかはわからない。そのなかでも、教会の営みは、「救いの杯」を、「わたしの杯」としての神を、キリストの血の杯の意味を、伝えていくだろう。
ビール好きのこの手元にあるグラスにも「主はわたしの杯」という詩編のことばが重く響いている。