石井祥裕(上智大学新カトリック大事典編集実務委員)
近現代のヨーロッパや日本の歴史と、信仰に生きた人々のかかわり、そのありようを見つめる研究を細々として研究している身です。『新カトリック大事典』(研究社刊)の編纂にかかわる中で、数多くの人々の生涯や事跡を世界史の動向の中に位置づけていく作業をしていくときに、不思議な符合に気づくことがあります。
今回はそんな経験の中から、ある町、ある環境、そしてそこにかかわった人々の生きた時代、思いの一端を紹介してみたいと思います。それほど知られていない人々でしたら、これから知っていくきっかけになればと思います。それは、筆者自身にも懐かしい留学先であった、オーストリアのインスブルックにかかわりのあった人々でした。
インスブルックという町は、オーストリアではウィーン、ザルツブルクに次いで有名な町で、1964年と1976年に、二度の冬季オリンピックが開催されています。北に行けばミュンヘン、東に行くと、ザルツブルク、ウィーン、西に行くと、チューリッヒ、バーゼル、そしてパリ、南に行くと、トレント(トリエント)、ヴェローナ、果てはローマと、小さな町にもかかわらず、ヨーロッパの東西南北につながっていく要衝です。町自体は四方を山に囲まれている感じですが、思いは全ヨーロッパに広がります。
「イン川にかかる橋」を語源とするインスブルックに町と城ができたのが11世紀末。1363年にはハプスブルク家の領有するところとなり、皇帝マクシミリアン1世(在位年1493~1519)がこの町の隆盛を導きました。
近世教会史の中で重要な意味をもつのは、宗教改革に対してカトリック改革が推進されつつある16世紀半ばのことです。ペトルス・カニシウス(生没年1521~97)というドイツ人最初のイエズス会員が、いわばカトリック世界の前線基地としてウィーン、プラハ、ミュンヘン、フリブール(スイス)などと並んで、1552年、ここインスブルックにイエズス会学院を創立したのです。
1669年にはこの学院を母体に、皇帝レオポルト1世(在位年1640~1705)によって大学が設立されます。ナポレオン時代に大学の地位を奪われますが、その後、再建し、また解散されていたイエズス会が1814年に再建されたのち、1857年にイエズス会運営組織としてインスブルック大学神学部も再開されます。そして、ここは、近代世界の中での伝統と革新の両面を相備えるカトリック復興を担う神学の拠点地の一つとなっていきます。
やがて、地元の教区神学院の司祭が学ぶだけでなく、ここは、ヨーロッパの諸地域から神学を学びに来る学生たちの学舎となり、そのための学寮(その名もペトルス・カニシウスにちなんで「カニジアーヌム」)が生まれます。はじめはイエズス会学院がそれを兼ねましたが、神学部の声望の高まりとともに、学生数が多くなったため、20世紀初め、少し離れたところの大きな建物になります。
神学部も国際神学院が時代の大きなチャレンジを受けたのは1938年。オーストリアを合邦したナチス国家ドイツによって両者が閉鎖され、神学生たちがスイスに疎開することになったときです。そして次は、第2バチカン公会議(1962~65年)による変革を被ったときでした。それは、20世紀前半までのカトリック復興期とは違ったメンタリティの到来で、司祭志願者、神学生が減少していく時代への突入でした。現在、神学部は信徒も含めた一般の神学部学生の学部として、また学寮施設は、インスブルック大学の一般学生の寮へと変貌を遂げています。
今年2021年2月13日放送のNHK「ブラタモリ」では大分県の日田がテーマとなっていました。筆者はよく知らないのですが、漫画『進撃の巨人』の作者・諫山創(いさやま はじめ)氏の出身地であることが最初の話題となっていました。なんでも、日田市の旧大山町は周りが山に囲まれており、それが『進撃の巨人』の世界観のモチーフを形づくっているとか……。
その大山町の景色を見て、インスブルックと似ているなと筆者は感じていました。窓の外を見てもいつも山が目に入ってくるインスブルックの町並みは、神学を学ぶ環境として考えれば、いつも神と自然と人間が交わり合って空間であることが特徴です。かつては全ヨーロッパから、現代では全世界から、キリスト教神学の研究や教会で奉仕の道を志す青年たちが、たとえ一学期でも、この環境から絶大な感化を受けていたのではないでしょうか。
1)「ミュンスターの獅子」……ミュンスター司教クレメンス・アウグスト・フォン・ガレン
この地で神学を学んだ経験のある高位聖職者として名高い一人の人は、ドイツ、ミュンスターの司教であったクレメンス・アウグスト・フォン・ガレン枢機卿(Clemens August von Gallen, 生没年1878~1946)です。ミュンスターの司教だったのは1933年から1946年。ちょうどヒトラー政権時代と重なります。ミュンスターの伯爵家の出身で、父親はドイツのカトリック政党として有名な中央党の国会議員でした。オーストリアのフェルトキルヒのイエズス会運営の高校を出て、1896年スイスのフリブール大学で哲学を学び、1899年からインスブルックのカニジアーヌムの学寮生となり、ここで哲学から神学へと進み、1903年からミュンスター教区神学院およびミュンスター大学で1904年司祭に叙階されます。彼にとって、インスブルックは明確に司祭を目指す決心の環境であったことが感じられます。
ミュンスターの司教としての彼の事跡には何よりも、ナチズムに徹底して対決した人として知られています。教皇ピウス11世のドイツにおけるカトリック教会に対するナチズムからの圧迫に対する憂慮を示した回勅『ミト・ブレンネンダー・ゾルゲ』の起草にあたって、ミュンヘンのファウルハーバー枢機卿(生没年1869 ~1952)とともに参画しました。彼の剛毅な雰囲気と姿勢は「ミュンスターの獅子」と呼ばれるほどでした。とくにナチス政権が実施した「障害者安楽死計画」(T4作戦)を徹底告発する説教をし(1941年)、この文章が秘かに人々の間で広まって大いに勇気づけ、反対世論の高まりをもたらし、ひいてはヒトラーによる計画中止命令にまで至らせました。
ガレンは戦後1946年2月18日、教皇ピウス12世によって枢機卿に親任されますが、わずかその1カ月後に逝去。1956年から列福調査が始まりますが、それが進展したのは教皇ヨハネ・パウロ2世の時代。このヨハネ・パウロ2世ことカロル・ヴォイティワは、ポーランド人としてナチズムの侵略から兵士時代に苦難を受けた人でしたが、ガレン司教の姿勢を知って、“別のドイツの姿”を知り、励まされたことがあったのでした。後年1987年、教皇としてミュンスターを訪問したとき、それはガレンの墓参りのためでした。ガレンが列福されたのは2005年、ドイツ人のベネディクト16世によってでしたが、ヨハネ・パウロ2世が世界に及ぼした働きの背後にガレンの姿があったと考えると、そこには戦前・戦後・冷戦終結までをつなげて見つめる一つの視点が生まれるのではないでしょうか。
2)世界教会の新時代の開拓者……ケルン大司教ヨゼフ・フリングス
1946年2月18日、このガレン司教と同時に枢機卿に親任されたのがケルン大司教ヨゼフ・フリングス(Josef Frings, 生没年1887~1978)です。彼もナチズムに対して徹底抵抗した教会指導者の一人でした。フリングスもその若き時代をインスブルックで過ごしています。ミュンヘン、インスブルック、フライブルク、ボンで神学を学んだといわれますが、本格的に司祭を志したのが1905~1907年のインスブルックのカニジアーヌムの学生だったときでした。ヨーロッパ各国から集まる学生との出会い、休暇を利用してはヴェネツィア、ローマ、ナポリ、スイスへと足を伸ばし、自身曰く「コスモポリタン的志向性」が育まれたのでした。最終的にはケルン教区神学院で学び、1910年司祭叙階。郷里ノイスやケルンの各教会での司牧経験を経て、ケルン大司教に任命されたのが戦争の真只中1942年のことでした。
彼の戦後の活躍は、戦後ドイツの再建、ドイツ連邦共和国の設立など、自国の戦後史に深くかかわっていきますが、とくに教会史的には初めてといわれる外国の大司教区との間の友好関係(兄弟姉妹的支援関係)の形成という画期的事業がありました。その相手がほかならぬ東京大司教区なのです。戦後日本のカトリック教会の歩み、とくに東京大司教区の歩みに対して、フリングス枢機卿は深くかかわってきます。
1950年代後半からの新しい小教区教会の建設(1956年 板橋;1957年 関町;1958年 小岩、清瀬、町田;1959年 青梅、北町;年1962年 荻窪)、現在の聖マリア大聖堂の建設、東京カトリック神学院の新築(1959~60年)、上智大学の発展支援など、現在に至るまで、その支援協力の大きさは計り知れません。フリングス枢機卿は1957年に来日しますが、その行程をみると、東京の関係先のほか、昭和天皇、岸信介首相との会見もあり、京都・奈良・大阪・広島(原爆資料館、平和記念聖堂でのミサ)、福岡、長崎などのほか韓国ソウルの訪問も含まれるという教皇訪問の先駆となるような有意義な内容でした。戦後復興期の日本の姿は彼の目にどのように映っていたのでしょうか。
そうした彼の対外支援実践への意志は、極東日本だけでなく、二つの団体の創立、一つはミゼレオール(Misereor:飢餓・貧困・病気に苦しむ人々のための援助団体。1958年)、もう一つはアドヴェニアート(Adveniato:中南米教会への援助団体。1961年)にその実が示されていきます。こうした経験が土台となってさらに大きな影響力を発揮することになったのが、第2バチカン公会議でした。彼の伝記の半分ぐらいは、この公会議での活躍に割かれているほどです。
第2バチカン公会議は、その準備段階から開会初期、全体を仕切りたいと考えていた教皇庁側の意向が目立っていました。それに対して、フリングス枢機卿ら各国の指導的司教たちは、この公会議こそ、新しい時代の世界教会のあり方を決定づけるものであり、そのためには各国の司教団が主導すべきだと唱え、彼らによる「公会議委員会」に大きな権限が与えられるよう動いたのでした。それはもちろん公会議を招集したヨハネス23世の意向でもあり、その精神を共有する、とくにドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー、オランダ、スイス、米国などの司教の横のつながりによって、今、知られているような公会議の成果が生まれたのでした。
と、このように、たまたまインスブルック時代に聖職者を志した二人の枢機卿を見るとき、20世紀前半と戦後、そして第2バチカン公会議時代が鮮やかに回想されてきます。一つの地、一つの環境世界に糸を垂らすと、このように時間と時代の前後が意味深く複合してきます。そのような視野に立つとき、「戦後」「第2バチカン公会議後」というかたちで、時代の前後を区切り、しかもその「後」しか見ないという視野の持ち方には、狭さと限界がおのずと感じられてきます。
ちなみに、インスブルック大学神学部は、むしろ、日本でも著書が翻訳されて知られている二人のイエズス会の神学者ヨゼフ・アンドレアス・ユングマン(Josef Andreas Jungmann, 生没年1989~1975)、カール・ラーナー(Karl Rahner, 生没年1904~84)の主要活動地でした。ユングマンはあのカニジアーヌムの院長も務めた人でもあります。彼らが広く世界の歴史、キリスト教史の全体を見渡しながら、とりわけ「福音宣教」をテーマに思索・研究していった人であることは知られています。その思想が現代のカトリック教会のもつ発想法や姿勢の震源となっていることは明らかでしょう。
山に囲まれた人口13万程度の都市。その山影の彼方には確かに世界と未来が広がっていました。しかし、山というのは、そこがヨーロッパ・アルプスの町だからこそ。神の被造物は、文字通り世界全体です。どの国・地域のどの場所もどの街角も自室も世界につながっています。そして、世界につながるための手段も今はますますパーソナライズされています。そこをほんとうに世界や他者に広げていけるかは心の向け方次第となるのでしょう。そのためにも、歴史の中には心の励ましの源となるような人々の生涯と思いが深く秘められています。そのような人々の存在と精神を、歴史の中から掘り起こしていく作業をこれからも続けていきたいと思っています。