私は誰か マタイの福音書5章13-16節


佐藤真理子

 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

マタイ5章13〜16節

私はイエス様が初めて会った人々にかける言葉が好きです。例えば、ペテロとアンデレに初めて会ったとき、イエス様は彼らにこう語ります。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

イエス様は相手の本質を見つめた声のかけ方をします。人の最も深い喜びは、自分の本質を見つめてもらうことなのではないかと思います。自分の価値をどこに置くかは重要な問題です。

 

神学校時代、神学生は奉仕教会を年ごとに変えたり夏季伝道に行ったりといろいろな教会に行きます。神学校内でも全寮制の学校の中でいろいろな人と関わります。それに加え、私これまで何度か引っ越したりしてきたので本当に様々な教会と関わることになりました。

そのようにしてキリスト教世界のコミュニティで大勢の人と初対面になる状態を繰り返すと、次第にそれがストレスになってしまいました。

多くの場合、出会って初めに聞かれるのは年齢、所属教団、出身地、神学校や出身校などでした。初めはなんとも思いませんでしたが、嫌というほど同じ質問に答えるうちに虚しさがこみ上げることが多くなりました。

なぜなら、それらは何一つ私自身の本質を表すものではないからです。それらは私にとっては付随する記号の一つでしかなかったのです。もちろん私のこれまでの経験と結びつくものではあるのですが、記号だけを知ってもらっても、私自身を知ってもらうことには何らならなかったからです。

そんな時、冒頭の聖句を読み、とても心に響きました。イエス様は私の所属など気にかけず、ただ「ついてきなさい」と語るのです。

 

また、私は仕えることとはキリストと共に生きることそのものだと思いますが、キリスト教世界を見るとキリストではなく「地域教会」や「教派」「教団」「神学校」といった箱に対する忠誠を誓わせるような態度が奉仕ととられることが多いように感じます。それが時に人々の誇りとなってしまうことがあります。だから、神学校では小さな教団の貴重な神学生が大きな教団に引き抜かれていくのを何度も見ました。自分の教団に益となることをするのがその人の誇りなので、そういった人が小さな教団の神学生を引き抜くのです。他の教派から自分と同じ教派に移る人がいることを誇ることも同様です。キリストではなく「教派」が誇りになると、そのようなことが起こります。

人は時に自分の本質ではないものに自分の価値を見出そうとします。所属や地位、知識、経歴、収入、容姿、親、配偶者や子供、健康状態、人から尊敬されること、人に必要とされることなど、挙げていけばきりがありません。

キリストは人を付随する何かで定義しようとはしませんでした。その人の本質を見つめ、愛し、「私についてきなさい。」と語るのです。

自分を見つめることは、人によっては怖いことかもしれません。立ち止まるのが怖くてワーカホリックに陥る人もいます。しかし、それを恐れていればいるほど、自分のうちの見つめられない何かに縛られていることが多いのではないかと思います。本当の自分に気づいていない人は、時に無意識から生じる妬みで無自覚に人に攻撃的になることもあります。

キリストは光で、人の罪という私たちのうちの影を照らし出します。それを神の御前に認めたときに、本当に深い解放が訪れます。私にも何度もそのような体験がありますが、自然と涙が流れ、気づかないうちに背負っていた重荷を下ろせるようで、本当に軽やかになります。それは罪ばかりを見つめようとする時ではなく、寧ろキリストという光を見つめようとするときに起こります。

世の中は時に、ありとあらゆることで自分の価値を貶めようとします。キリスト教の世界であっても神から来るものではない基準で人を比較することがあります。人が人の価値を決めるという愚かなことをすることがあります。しかし、その基準に惑わされることは聖書に相反する生き方です。

神が定義したあなたの価値は「地の塩、世の光」です。世界の基の据えられる前から存在が計画され、目的をもって生まれたのが私たちです。例え親が望まず生まれた人がいたとしても、神はその人の存在を計画していたのです。神がその人の存在を唯一無二の価値を認めて望んだのです。神は私たちに「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」と語ります。

パウロは、人も羨む自分の出生や経歴をキリストゆえに損と思うと語りました。キリスト以上の価値を持つものがこの世に何一つ存在しないことを知っていたからです。私たちが誇るべきはただ一つ、「キリスト」です。

 「有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

コリント人への手紙第一 1章28〜31節

佐藤真理子(さとう・まりこ)

東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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