不滅の光 Ⅱコリ4:8〜10


佐藤真理子

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

コリント人への手紙第二 4章8〜10節

新年あけましておめでとうございます。

いろいろな気持ちで新年を迎える方がいらっしゃると思います。私たちは一人ひとり、異なる過去を持っています。しかし、その過去は私たちを縛ることも支配することもできません。イエス・キリストを信じたその時から、私たちの内にはキリストが住まわれます。私たちの過去は、キリストの過去でもあるのです。キリストにある希望は、何者にも妨げられることはないのです。新年最初のメッセージにしては少しヘビーかもしれませんが、今回はどんな傷やどんな過去も私たちの希望を奪えないことをお伝えしたいと思います。

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第二テモテ3:12)
神学生となって以来、私は何度も心が折れそうになる経験をしました。
このことが神から引き離そうとする者、サタンによる働きだと気づくまでには少し時間がかかりました。

私たちが神様に向かえば向かうほど、そこから引き離そうとする力が働きます。これは聖書に書かれている真実です。神様によって喜びに満ちて歩もうとするとき、真剣にキリストにあって生きようとするとき、必ず人には苦難が伴います。

私がこうした心の折れる出来事に出会ったとき、ジョイス・マイヤーという伝道者の説教での次の言葉が非常に慰めとなりました。彼女は父親からの性的虐待を経験していますが、キリストにあって、その過去を乗り越えた人です。
「不当な出来事に出会うとき、間違っているのは不当なことをする人であって、不当な目に合うあなたではない。あなたが大丈夫かどうかを世の中に決めさせないでほしい。神様はあなたを大丈夫だと言っている。神様があなたを母の胎で組み立て、あなたの骨を形作り、神様があなたに人格を与えたのだから。」

私には、ずっと祈ってきたことが、信頼した人の不当な仕打ちという結果に終わったことがありました。
ひどく打ちのめされた私の目の前には、二つの選択肢がありました。この先さらに素晴らしいことが起こるという期待をもって神様を信じるか、神様への信頼を妥協するかです。
そして、私はこの試練を通して、一つの選択を迫られていることが分かったのです。さきほど語ったように、さらに希望をもって生き続けるか、失望や諦めを抱きながら生きるかです。
信仰の試練の時に、神様の愛を信じ続けるか、妥協するか。どちらを選択するのか、私たちには常にその選択が迫られています。
学生時代、聖地巡礼の旅に出た私は、エジプトでシナイ山と呼ばれる山に登りました。砂漠を夜中に登山するので、真っ暗なのではないかと思い、懐中電灯が必要だと思いましたが、山は月明かりで辺り一面が明るく、わざわざ自分で照らす必要はありませんでした。そのとき、「月がこんなに明るいなんて知らなかった」と思いました。また、それまで一度も流れ星を見たことのなかった私は、その夜一生分くらいの流れ星を見ました。
暗闇の中で、普段当たり前のように目の前にあったものが、どんなに光り輝くものだったのかが分かったのです。

私が試練の時に体験したのものはそのようなものでした。また、そのような時、家族をはじめ、本当に信頼できる人の助けが自分に与えられていることも、かけがえのない恵みだと思いました。それまで自分を本当に助けてくれる人々に対しどんなに自分が傲慢であったかも気づかされ砕かれました。
また、祈ったことの結果が不当な仕打ちだと思ったとき、いつも聖書のみことばに導かれるようにして祈ってきたので、みことばへの不信感が沸いてしまいましたが、その試練を助けてくれたのもまた、みことばだったのです。

そのとき私が読んでいたのはヨブ記でした。ヨブ記に記されているヨブは、苦しみのあと試練の前以上の祝福を得ました。また旧約聖書にしるされているヨセフは、兄弟からひどい目に遭い異国で多くの苦労をしますが、やはり最終的に素晴らしい祝福を得ることになりました。また旧約聖書に登場する預言者は多くの試練を通りますが、数千年後、また数百年後、その預言はキリストという光り輝く祝福によって成就したのです。

神様の御手にあるとき、そこにあるのは問題ではありません。計画があるのです。

しかし、その計画の意味は成就するまでわかりません。人生の歩みの中で私たちがただ神に信頼することが求められているからです。どんな試練があっても、その先に必ず良いことが計画されていることを信じること、祈りは想像通りではなくとも最も良い形で必ず答えられること、それを信じることが、試練において私たちが選択すべき道です。

聖書は敵を愛し祝福を祈るように示しています。祝福を祈ることは第一にその人が神の御前に正しく罪を悔い改めるように導くことです。それを除いて不当なことをしながら生きる人が幸せになれる道はないのです。愛を知らない人が、愛のない行動をします。だから、不当なことをする人は、愛の源である神を本当の意味で知る必要があるのです。

また、私はそのときヨブ記とともにローマの8章も読んでいました。「何者も神の愛から引き離すことはできない」という箇所です。災害、無残な事件、戦争、この世には理解を超える悲しいことがたくさんありますが、神の愛はそのようなものに脅かされはしないのです。

私は、その試練において「このようなことで私を神から引き離すことはできない。」と心の中で宣言しました。そして決して簡単ではありませんでしたが再びそれを全て益に変える力のある神に希望を置くことにしました。このようなプロセスを経るうちに、みことばの持つ意味の深さが私の中で以前よりも増していくのがわかりました。

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

試練にあったとき、神様への信頼を失うなら、それはサタンの思うつぼです。しかしさらにそのとき私たちが祈るなら、それは素晴らしいことの始まりとなります。諦めず祈り、神様を信じましょう。必ず私たちは、信じたことの結果を見る日が来ます。神様に信頼する者は恥を見ることがないと聖書には何度も記されています。神様に対する希望は、失望には終わりません。

「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」(イザヤ書30章19-21節)

「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ。わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」(イザヤ書42章1-4節)

神は決して、傷んだ葦を折ることはありません。今逆境にある人も、神が必ず全てを益とします。神から来る希望は、誰にも奪えない不滅の光です。

  

佐藤真理子(さとう・まりこ)

東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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