酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)
人間が物理的な制約を離れ、ただの精神的な存在として生きることはできるのだろうか。
何度かZoom上で会っていて、アバターを使って会話しているわけではないのに、実際に対面で会うと「お久しぶり」感があふれる。唯物論者ではないけれど、人間は物理的存在だし、モニター上の平面だと違和感しかない。リアルって、なんだろう。ネットで対話するときの現実感は、どこに置き去りにされたのだろう。
私が中学生や高校生だったとき、ネットと現実の間には、なにか壁があった気がした。Windows98の時代。そこでは、匿名性という覆いを自らにかけ、現実の不条理さや凄惨さを無視した、現実空間に存在する人格とは別の自己として存在する世界があった。日常生活の中では圧迫され、沈黙しつつも、どこかに自分の居場所を探し求めることは、現代人も同じだろう。しかし、現在では、匿名性を根拠に責任逃れすることはほぼ不可能で、IT空間は限りなく現実の延長線上にある。
最近『リリィ・シュシュのすべて』という作品の書籍版と映画版を観た。ここで描かれているリリィ・シュシュという歌手は、単なるシンガーではなく、女神や神のようなカリスマ性を持つと言われている存在であった。彼女の詩、歌声、思想――そこで若者たちは救済を得た。さらに、そのカリスマ性に感化された人々が、ネット上の掲示板で精神的な交流を通して自分の気持を吐露していた。彼らは自分たちがまるでリリィ・シュシュの「正統な理解者」であるように、閉鎖的コミュニティの中で生きていた。そこで作り上げられたリリィ・シュシュは、明らかに「現実の彼女」から乖離していたように思う。また、掲示板の中では小さな人間関係のトラブルもあった。それでも彼らは人生を営みながら、互いの傷を癒やし、リリィ・シュシュを信奉していた。
「そもそも生きているというのは悲しい事件でしょ? 人間にとって最大の傷は、存在。」
彼らはリリィ・シュシュの思想を糧とし、生きてきた。それが喜びだった。人々は彼女が歌うエーテルと呼ばれる感情のうねりの中にこそ、魂の癒しの全てがあると信じていた。彼女の神学を語り繋ぐことに、人生の意味を見出していた――。
しかし、主人公の蓮見雄一くんは、物語の最後で現実に敗北する。結局、今まで自分が作り上げ、積み上げてきた掲示板の物語よりも、悲惨な事実の方が強いことを思い知らされたのだ。
自己のアイデンティティの拠り所を失う痛み。それは、肉体的な傷や損失を遥かに超えた、精神的な、魂の部分的な死である。この世界で唯一、誰も踏み込めない場所。その無意識の内に作り上げた、まるで宗教のような、教会のような場所における、この世界で唯一の救済が蹂躙されるような出来事であった。
蓮見くんは結局、十二使徒にも、パウロにもなれなかった。
私も大学に入るまでは、チャットでコミュニケーションをとることが多く、家族ともあまり会話をしなかった。それは、悪口や愚痴を言って鬱憤を晴らしていたわけではなく、対面で自己を表現することに異常な程に抵抗があったからだ。傷つけられることや、否定されることが怖いのとも違う、何かとても脆弱なものだが、そこに自分のアイデンティティがあったような気がする。
また、現実に対する不条理を、ネット世界では精神的に緩和することができた。今思えば、対面ではない人間関係に逃げていたというよりも、私が高校生だった当時、自分のそういう思想的な面を上手く吐き出せる相手が、自分の周りにはいなかったということなのかもしれない。だから、18歳でキリスト教の世界に出会い、思いをだんだんと口に出せるようになったとき、私は嬉しかったし、そこに救いを感じた。体調を崩して入院したことなど、色々とあったけれど、結局自分の救いは教会にあると思えたし、それ以上にイエス・キリストを「信じる」根拠があった。波瀾万丈ではあったけど、人間不信にならなくて良かったと思う。それは、私がある意味ネットを「卒業」したときであった。「信じる」ということは、保証や見返りなどを全て捨てて、誠実に願い行動し、信じ抜くことなのだろう。様々な困難の中にはあったけど、それでも目の前の直接会う人間を大切にすることを諦めないことができたのは、神の賜物であり、聖霊の働きだったと感じた。
偏見かもしれないが、唯物論者や科学技術を信仰する者は、抽象的なものや思想的なものを随分と軽視しているように感じる。しかし、『リリィ・シュシュのすべて』の世界では、思想こそが最大の価値となっている。絶対的な存在である思想を傷つけるあらゆるものが、排除される対象となる。自分と違う思想を持っている物理的な存在は、時にはいのちすら奪っても正当化するということもある。
絶望とは、何なのか。もしかしたらネット環境が豊富で情報過多な現実社会においては、蓮見くんのように田舎で暮らし、ただ強者に従うだけで他の選択肢が何もないというような救いの可能性が何も見えない体験をするひとは減るかもしれない。蓮見くんにとってはリリィ・シュシュこそがリアルなものであり、それを理解する自身にこそ意味があり、純粋さと信奉こそが彼の生きる全てだったのではないだろうか。
私自身は「自分だけがおかしい」ことが辛かったし、誰も理解者がいないというふうに感じた。でも、年を重ねる中で、世の中には色々な人間がいることがわかった。見た目だけではなく、世界観や価値観、思考など、自分に合う環境があることを知ることは、大切だと感じる。それは、家族や学校や塾やテレビだけではない様々な生き方や、やり過ごし方を知ることである。「レールに乗った普通の人生」が明確に存在するわけではない。全くお金がない生活や全く働かない生活は不可能であるけれども、お金持ちになることだけが成功ではないし、フリーターや無職でも、何気なく日々を生きているひともいると知ることは、人生を豊かにする気がする。
たぶん、10代や20代の感覚に、今の私は絶対に戻れない。
あの時に感じていた「ネットや現実の中の絶対的存在」は、今ではそれほどまで絶対ではないし、越えられないものではない。蓮見くんだって、30代になったら、そう思うかもしれない。
私がキリスト教に出会って嬉しかったことは、みんなでお昼の礼拝に出て、その後にCCC(キャンパスキリスト教センター)でお昼ごはんを食べたことだった。とても小さなことかもしれないが、今まで誰かと会話をしながら食事をしたことがなかったので、本当に嬉しかった。自分から話題をふったり喋ったりすることはなかったけれど、それでも、自分はここにいていいのだと感じた。キリスト教に日々触れていく中で、洗礼を受けて、だんだんと聖餐式を知るようになったときも、嬉しかった。分かち合うことの喜びを知ったし、そこに人間の理解を超えた存在があることを、本当に知ったときだった。
それは、私がチャットの中だけの人間関係をやめたときであった。
「コロナ終末論」のような発言を、コロナ禍の当初から耳にしていた。「このパンデミックが終わったときに、いい意味でも悪い意味でも、過去には戻れなくなるだろう」と。全世界の人間がZoomを半ば強制的に体得した時点で、これまで海外に行かなければ参加できなかった世界会議など、様々な活動に参加できるようになったのは事実である。しかし同時に、オンラインだけでは不完全な部分も浮き彫りになった。カトリック教会の公会議も、次に行うのが対面だとしてもZoomだとしても、もっとスムーズに行うことができるかもしれないと感じた。
来年は1521年のイグナチオ・デ・ロヨラの回心から500年だそうだ。私としては2017年の宗教改革500年がとても印象的で、その後、しばらくアニバーサリーな祝祭はないと思っていたので、かなり驚いた。イグナチオ・デ・ロヨラも、宗教改革の時期にカトリック教会を内部から刷新した、重要人物である。もし次に宗教改革が起こるとしたら、それはエキュメニズム運動だと思うが、どうなるのだろうか。
人間と回心は、切り離せない。私は「神と他者にちゃんと出会う」ことができるように、探し求める信仰生活を続けたい。
【参考文献】
岩井俊二『リリィ・シュシュのすべて』(角川文庫 2004年)
映画「リリィ・シュシュのすべて」(2001年公開)