酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)
去年の教皇来日のテーマ「すべてのいのちを守るため〜PROTECT ALL LIFE〜」がまるで伏線であったかのように、コロナ禍に突入した2020年。ソーシャルディスタンスや住宅ワークが推奨され、できるだけお互いの関わりを減らすことを強制される年になりました。終息の兆しはいっこうに見られず、冬に向けてさらに拡大するのではと危機感を募らせています。そうなったら、せっかく対面式に戻ったミサや礼拝がまた厳しく制限されるかもしれません。
ですが、私はもっと対面を大事にしたいと思っています。以前は喫茶店やファーストフード店、レストランなどで、二人で向かい合っているにもかかわらず、お互い黙々とスマホをいじっているという光景をよく見かけました。その度に、せっかく一緒にいるのに勿体ないと強く感じていました。また、授業中にずっとスマホをいじっている学生も数多くいました。しかし、このコロナ禍で、外出自粛になったり、授業がリモートになって大学の構内に入れなかったりする事態になりました。当たり前だったことが当たり前にできなくなり、多くの人が、目の前のひとと共に過ごす貴重な時間や、それを分かち合うことの大切さに気付いたのではないでしょうか。
時間や機会は無限ではありません。人と過ごす時間はかけがえのないものであり、他者と時間を分かち合うことは、教会生活でも、大学でも、「その場」における全てに、味わいと彩りを与えてくれます。また、「雑談」も大切です。授業やミーティングなどの様々な場面で、その前後の時間にある「何気ない会話」や「議題に関係するけど、皆の前で言うほどではないこと」「本題には関係ないけど、一部に伝えたいこと」といった会話が、本当は結構大事だということを実感しました。
さらに、実際に会うのと、モニター上とでは全然印象が違います。実際に会うと、息遣いや身体の全てから発せられる微妙なメッセージなどもそうですし、教会堂のかおりとか、ちょっとした空間の空気の温度といった、視覚や聴覚以外の刺激も感じます。緊急事態宣言が解除されたあと、教会に行くと、自分以外の人間が自分と同じ空間にいて、他者と接する刺激があり、神さまとの関係も少し取り戻せたような気がしました。そのような意味でも、対面の大切さ、そして他者の大切さを再確認するいい機会になりました。自分の信仰を自分ひとりだけで維持する難しさも、おおいに痛感しました。
このコロナ禍で、現在も多くの人が悲しみ、苦しんでいる。その中で、簡単に「いい機会だった」と言い切ることはできないと思います。でも、対面を大切にしたいということ。目の前のひとを、大切にすること。
この言葉のように、対面を大切にし、目の前の人を大切にしたいと思っています。
対面の大切さを痛感したことで、改めて、「今、何のために物理的な教会に行く必要があるのか」ということについても考える機会になりました。とある本に「受洗後のクリスチャンの信仰生活の平均寿命は3年だという説が広がった」とありました。洗礼を受けてキリスト教徒になっても、その後これといって存在理由を見出すことができないことが原因の一つのようです。確かに、周りの人から「信仰生活のマンネリ化」という言葉を聞いたこともあります。
ですが、私にとってキリスト者であることは、だんだんと成長し、漢方薬のようにゆっくりと体質を改善していくような、その信仰の世界に染まっていくような感じがしています。
ただ世界観や価値観が身にしみてくるというだけではなく、自分の思考や行動にも変化が起こる可能性もあるのです。そして、その「神と共に生きる」世界が、自分にとって世界に触れる最も真実な在り方だと感じています。
私がキリスト教に出会って衝撃的だったことは、1回や2回話をしただけで、そのときのことを覚えている神学生や先生がいて、自分の名前を覚えていてくれたことでした。大学に入る前、私は塾の学生や教師の名前も知らず、あまり他人に興味がなかったので、なんだか物凄くインパクトがありました。私の存在や名前を覚えていても、一円の価値もないと思っていたのです。だから、当時は「自分が大切にされている」と、素直に嬉しいという感情が溢れてきました。そんなことでと思われるかもしれませんが、私の中では人間的な理解を超えた、本当に不思議な体験でした。
私は神に直接会ったことはないし、神の言葉を直接聞いたわけでもありません。でも、「この人たちが信じている、イエス・キリストって、何者なのだろう?」という小さな疑問が、自分の信仰生活のスタート地点だったことは覚えています。そして、「私にはここにイエス・キリストがいる」という確信に変わり、だんだんと自分の信仰の基盤になっていきました。それは、神学や明確に文章化されたものから学んだだけではなく、もっと生活に密着するような信仰生活や教会生活からも吸収して、そのようになっていったのです。
教会は、なんとも言えない謎の共通概念や思念体のような存在で、そういうものは直接その場にいないとわからないものだと思いました。教会での青年活動や年齢層の広い世代との関わり、幾つもの共同体の中で共に喜び、分かち合うつながりは、私の人生そのものだと感じます。
「ありがとう」
イエス・キリストが「救いたい」と願い、行動し、語ったこと。それは、自分がずっと助けられながら生きてきたことを気づかせてくれました。そして、そのときに受けた「愛」を、自分が次に出会う他者に受け継いでいくこと。それが、神と人に対して、言いたいことです。過去の時間の全てを、想起する中で、言いたいこと。私の中に、ずっとある深い望み。あなたのおかげで、今の私がいるのだから。
【参考文献】
石田学、松田和憲、鈴木脩平、濱野道雄著、越川弘英編『宣教ってなんだ?――現代の課題と展望』キリスト新聞社、2012年