酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)
いつ終わるのか、いつ落ち着くのか。このコロナ禍の中で、世界中の人々が大きな悩みと共に生きています。感染や重症化の恐怖や不安もさることながら、改めて、礼拝やミサが当たり前のようにあった生活が無くなってしまった事実に対する悲しみがあります。教会に行きたくても行けない方々の気持ちを考えると、本当に複雑な気分です。でも、カトリック教会もやっとミサに参加できる人の年齢制限が解除されたりして(カトリック教会東京大司教区「教会活動の制限緩和について」)、段々と教会は社会との関わりの折り合いを見つけつつあるように感じます。
それと同時に、以前と比べて出席者がとても少ない教会の中で、今まで以上に他者に寄り添いたい、より一人ひとりを大切にしたいという気持ちが生まれました。その結果、些細なことで衝突したことや自分の視野の狭さなど、慌ただしく毎日を過ごしていたときにはあまり意識してこなかったことが思い浮かび、他者との時間をもっと大切にしようと一層強く思うようになりました。
その時出てきた言葉は「罪と赦し」というテーマでした。
それは、イエスの人との関わりです。イエスは人々を大切にしました。それが当時、罪人とされていた人だったとしてもです。イエス・キリストが生きていた時代にも、差別意識や偏見はありました。共同体から除外され、孤独の中を歩み、何の希望も見いだせない人々が多く登場します。旧約聖書の時代、女性と男性が肩を並べて働くのは考えられないことでした。
その時に比べれば、現代は人間の生き方も、差別や偏見の対象も大きく変化しています。価値観が多様化し、個性の尊重が重視されます。性的マイノリティ、自殺、離婚の問題など、聖書的価値観や視点を解釈し直す必要があるように思えます。部分的には、確かに過去の人々の苦しみが軽減されている一方で、また新しい差別や偏見も生まれています。
差別や偏見など、他者を傷つけてしまう原因は何なのでしょうか。私は、不条理や無理解、社会的な問題や家庭の問題、経済的理由など、様々な悪いものの積み重ねのせいだと思います。犯罪に対しても、ただ犯罪者本人が裁かれるだけでは、この社会や世界の問題の根本的な解決にはならないと常々感じています。意識はしていなくても、知らずしらずのうちに誰かを傷つけてしまっていることも少なくありません。
それに対して、イエス・キリストは人々から嫌悪され、孤独の中にいた人々に、解放をもたらしました。神から見放されたように、何の救いの可能性もなく、諦めと絶望の中に捨て置かれたような人々。イエスは彼らの苦しみに共感し、近づいて手を差し伸べ、その人々の中に信頼と希望を呼び覚ましていきました。新しく希望を抱いて、前に進んでいくこと。それは、赦しと癒やしです。この世界から居場所がなくなるほどの絶望や、知られてしまったら神にも人間にも向き合えないような罪も、あるのかもしれません。それでも、背負えないほどの出来事から生じる強烈な罪への自覚と悔悛には、意味があります。人間の力や人間的な限界を超えた赦しの力。神からの一方的な恵みの力によって、与えられる賜物である力が、そこにあります。
イエスの語る「あわれに思う」は、目の前の人間の苦しみを見たときに、こちら側のはらわたも痛んでくる、はらわたが揺さぶられる、そういう「共感」を表す言葉です。愛とは、相手の痛みを痛みとして感じる共感であり、また、その共感から生じる行為なのです。差別意識や無関心を超えて、イエスの生き方全体が新しい神と人のつながり、人と人のつながりを表すものでした。他者から赦されたとき、人は初めて赦しを知り、他者から愛されたときに、人は愛を知るのです。
「イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。」
(中略)
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
(ルカによる福音書7:41~43、47)
どんなに気をつけていても、人は何度も罪と赦しを体験します。プロテスタント教会には告解はありませんが、神と人に対して、牧師や信者に自分の内心を吐露することはあります。秘跡ではないけれど、私には秘跡のように大きな出来事に感じられます。
先に進めないほどに感情も思考も囚われてしまい、どうして、なぜと問い続ける中で、イエスの「いやし」の行為は、「神があなたを、見捨てていない」という宣言だと再確認しました。イエスは私たち被造物をひとりひとり愛してくださっている。それは、他者を通して見えてくるイエスのすがたです。目の前にいるこの人を通して、神が語っているという瞬間。その神の解放のわざが実現している。今も、そして、永久に。
誰のせいでこの人は病気なのかと問われた時に「神の業がこのひとに現れるため」と返したその言葉には、どれほど救いがあったでしょう。病気になり、本当に弱ってしまう体験をしたことがある人には、これ以上何も必要がないかもしれません。弱さや痛みは、自分自身で体験することなしには、実感できないものでしょう。そして、悲しみや辛さの中にあったとしても、そこに神が共にいること。しかも、すぐそばに。だからこそ、最後まで諦めてほしくないのです。
このような時代にあっても、神の輝きがこの世界にはある。それこそが全人類の希望なのだと語りかけるようでした。
【参考文献】
幸田和生著『ゆるしの力』女子パウロ会、1995年