第8回 終わらない希望


佐藤真理子

さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

ヨハネの福音書11章1〜4節

今回は新約聖書にあるヨハネの福音書から、イエス・キリストが死人であったラザロを生き返らせた時の出来事に目を向けたいと思います。連日のニュースから分かるように、今、私たちは楽ではない時代を通っています。そこで、イエス様は、ラザロの病気や死にどのような結末をもたらしたのか、それをどのように用いるかに注目してみたいと思います。私たちが神によって歩むとき、逆境において、この聖書個所から得られることと同じことが起こるからです。

イエス・キリストは、ベタニヤという場所に住んでいた、ある三人の姉弟を愛しておられました。一番上のお姉さんはマルタ、妹のマリヤ、そして弟のラザロです。この三姉弟は、イエス様と親しい者達でした。

あるときラザロは重い病気となります。それゆえこの姉妹は人を遣わして、

「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

とイエス様に伝えました。そのときイエス様がお答えになったのが、この言葉です。

「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

「この病気は死で終わらない。」これは一体どういうことでしょうか。

キリストはラザロが病んでいると聞いてからもそのときいた場所に二日とどまりました。それから、ラザロたちのいる場所へと向かいました。そこではキリストを憎む者たちがキリストを殺す計画を立てていましたが、それを知ったうえで、ラザロのもとへとイエス様は向かったのです。

イエス様が到着すると、ラザロはすでに亡くなっており、姉であるマルタとマリヤは身が裂かれるほどの悲しさに苦しんでいました。「あなたがおられればわたしの兄弟は死ななかったでしょう。」というマルタに、イエス様は「わたしはよみがえりであり、命である、私を信じる者は、たとい死んでも生きる」と仰いました。

イエス様は死んだラザロを目の前にし、涙を流されました。神であられると同時に人であられるイエス様は、私たちの悲しみを知っており、涙をながす方なのです。ラザロを目の前にして涙を流すイエス様を見て、ユダヤ人たちは言いました。

「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

イエス様はラザロのお墓に入られると、もうラザロは腐っていると伝えるマルタに「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」と語りかけました。そして神様に向かって「父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します。」と祈りました。祈りの後「ラザロよ、出てきなさい。」とイエス様が言うと、死人であったラザロは生き返り、墓の中から出てきました。それを見た多くのユダヤ人はイエス様を信じることになりました。

この出来事を通して、イエス様はご自分をつかわした神様が死に打ち勝つ方であることを示されました。イエス様はご自身が不可能を可能にする力を神によって得ていることを示しました。死人を生き返らせる御業によって、神の力を表し、皆に尽きることのない希望をあらわすために、ラザロが亡くなってから彼のもとに到着するようにしたのです。イエス様は永遠の命をもたらすために、この世にこられました。ご自分の一人子を与えるほどに、それほどに神様は私たちを愛しておられました。そして神様の愛は、私たちのどんな試練も、病気も、死も、悲しみも、素晴らしい栄光へと変える力を持っておられます。

私が大学生の時、私の母は病気で入院することになりました。私の実家は大学から遠く、飛行機を使わなければ帰れない距離にあったので、私は母の最もつらいとき、そばにいてやることはできませんでした。しかし、クリスチャンである私の母は、病気のことを私に伝える際、電話口でこう言いました。

「ラザロの死の箇所、ヨハネ11章4節『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』という箇所が与えられたんだよ。」

入院中の母は今まで見たことのないほど明るく過ごしていました。私はそれを見て、家族である自分以上に、母の試練のとき最も近くにいるのはイエス様であることを知りました。母は大きな手術を受けましたが、その日の夜私は一人で母とともに病室に泊まりました。自分を今まで守ってくれていた元気な母が目の前で無力な状態で倒れているのをみると悲しくて、機械の音が響く病室で泣きながら過ごし、一睡もできませんでした。

しかしその後で私は、その日私の一番近くにいたのも、やはりイエス様であったことを知ったのでした。私はこのことをきっかけに、今まで母や、それまで通っていたミッション系の幼稚園や学校、教会できいていた神が、いま生きていることを知りました。それまで何度もきいてきた主イエス・キリストが、今この瞬間生きて働いて、誰よりも近くにいることを理解したのです。これは私にとって、母の病室で体験した暗闇のような夜の何倍も大きな光が差してくるような体験でした。まさに母の病気は神の栄光をあらわすものとして用いられました。

神様の愛の深さははかりしれません。この世で最も大きな愛は形をとりました。その愛は肉をまとい人間となりました。人の子となったその愛は、私たちのもとにこられ、イエス・キリストとして顕れたのです。

これを読んでくださっている方は、私よりもっとつらい経験をしたことがあるかもしれませんし、それがこれからおこるかもしれません。しかし、私たちの試練は死で終わることはありません。イエス様は私たちが一人で歩くことができないときに、私たちを背負って歩んでくださるということ、また神様の愛は苦しみをすべて栄光に変えることを、どうか覚えていてください。神様は不可能を可能にします。聖書は「この方に信頼する者は失望させられることがない」と約束しています。神を信じる限り、その先にあるのは希望以外の何物でもありません。神は今日、あなたの心をその尽きることのない希望の光で満たしたいと願っています。

佐藤真理子(さとう・まりこ)

東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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