つらつらつまみ読み『山の人生』


鵜飼清(評論家)

柳田国男

新聞だったかなにかで柳田国男の『山の人生』という本が、初版刊行から来年(2021年)で95年ということを知った。わたしの持っている岩波文庫版の『山の人生』で調べてみたら、初版は大正15年(1926年)とあった。この年は12月に大正天皇が没し、昭和の時代が到来する年でもある。

別に元号が変わる時代に、なにかがあるようなことを匂わせるわけではないのだが、『山の人生』の示唆することが、わたしにとって興味深いことに感じられるようになっている。それは柄谷行人さんの書くものによって与えられた人間認識であり、歴史認識と言ってもいい。

柄谷さんは『意味という病』(講談社文芸文庫)という本の「人間的なもの」というなかで、「柳田国男は『山の人生』の第一章に、『我々が空想で描いて見ている世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。又我々をして考へしめる』と書いて、次のような事件を記している」として、その事件、「一、山に埋もれたる人生あること」を紹介する。

「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。

女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいゐの小娘を貰って来て、山の炭焼き小屋で一緒に育てゝ居た。其の子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。

眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂う。二人の子供がその日当たりの処にしやがんで、頻(しきり)に何かして居るので、傍らへ行って見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧(おの)を磨いていた。阿爺(おとう)、此でわたしたちを殺して呉れと謂ったさうである。さうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくらくらとして、前後の考も無く二人の首を打落してしまたつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢(ろう)に入れられた」

柄谷さんは、役人だった柳田は彼を特赦にしたことで、柳田がこの事件から感じ取ったものが、同情とか憐憫(れんびん)といったものを越えた一種いいようのない衝撃だっただろうと書いている。

「心理学的にみれば、これは飢餓が生み出した心的異常であり、社会学的にみれば、要するに経済問題である。しかし、柳田の感受性は、飢えとか殺人行為の見せかけの悲惨さではなく、もっとその奥に流れている“人間的なもの”にとどいている。柳田はほとんど感動していたのだといってもよい。この事件を〈可哀想だ〉といったのは、殺してくれという子供たちとふらふら殺してしまう父親の行為の底に、いわば《魂》の問題、道徳とか法では律しえない〈人間の条件〉を感受しているからである」

柄谷さんが、この事件を柳田が「可哀想だ」というのは、「柳田における“人間的なもの”に関する一つの認識にもとづいている」とするとき、わたしはわたしなりに、この「人間的なもの」を追求していくべきと考えはじめた。そして、

「どんな意識的な行為でも不透過(ふとうか)な部分がある。ふらふらとやったのと大差ない要素がある。とにかく先ず人間は何事かをやってしまう。そして、やってしまってから考えるのである。われわれはすでにやってしまったことについてしか思考しえない。しかも、すでにやってしまったということへの異和感なしには思考しえない。これは極言すれば、われわれが誰でも気がついたらすでにこの世界に生きていたということと変りはない」

という部分に触れるとき、「どんな意識的な行為でも不透過な部分がある」ことから、「人間が生きることの意味」について、つまり「意味という病」へと思索の幅は広がり、深められていく。

柄谷さんが著した『世界史の実験』(岩波新書)では、第二部に「山人から見る世界史」が書かれている。そこには、柳田は長い間多くの仕事をしたが、一貫して抱いていた主題は「山人」であると言明する。

柄谷さんの『山の人生』の読みをテクストにしながら、「実験の史学」を巡るワールドへと誘われていくのも刺激的だ。

だいぶ夜も深くなってきた。「いつまでも起きてないで、早く寝なさい」という山の神の声が聞こえてきそうなので、とりあえず、ここら辺で筆を擱(お)こう。「おやすみなさい」

 


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