山と、聖書と、日本の宗教(AMOR流リサーチ)


「山」に注目する意味
そぼ
こんにちはー。いつ以来だっけ?
りさ
たった2ヶ月ぶりですよ。西暦とかキリスト紀元とか調べたじゃないですか。
そぼ
2020年の始まりと意気込んだけど、今や新型コロナウイルスで一色になっちゃったね。
りさ
新年度の春、キリスト教では復活祭という季節なのに、かなり滅入ります。と、同時に、これほど「復活」ということばが心に響くときもありません。
そぼ
ねー、ほんとに。普通の生活の復活を心から待ち望むね。
りさ
2020年はほんとうに大変な年になりました。
そぼ
ところで、今月の特集は「山」がキーワードになってるけど、何で? AMORの春の特集といえば「復活」が定番のテーマだったよね?
りさ
たしかに、かなりの変化球攻めといえるかもしれません。でも、今回参考文献にする『日本宗教事典』縮刷版(弘文堂 1994年)449ページには、こんなことが書いてあるんです。読んでみてください。
そぼ
ほい。「弥生時代以降、……山岳は人間がそこから魂を授かることによって生を受け、死ぬとまたそこに帰ってゆく場所と信じられていた」。なるほど、生命の源が山にあると信じられていたわけか。てことは、生と再生にも関係あるわけだね。
りさ
ええ、生と再生、死と復活を考えるうえで、「山」は案外重要なテーマなのではないかなと思います。そこで調べ始めると、題材は膨大になるので、ドイツのカトリック大事典(略号LThK3)の「山々(Berge)」という項目にある概観を手がかりにしてみます。
ところで、祖母江くんは登山の経験は?
そぼ
それなりに。でも、少ないと思うよ。ロープーウェイで行けるところまでだね。軟弱かな。
りさ
まあ、若いんですし、今年は成人記念に富士山でも登ったらどうです?
そぼ
いやいや、富士山こそ、遠くから眺めたほうがきれいだよ。ほら。

富士山(山梨県北杜市から)

天と地、神と人をつなぐ山
りさ
さて、本題に入りましょう。「山は世界のすべての宗教で、重要な役割を果たしています。その高さと姿によって、天と地をつなぐ場であり、そこから、神々と人間の出会いの場となっています」。
そぼ
日本でも「山岳には稲作や生活に必要な水をもたらす神がいるとされた」ってあるね。
りさ
ですから、「多くの宗教では、特定の聖なる山が神々の住まいや神々を祀る場所と定められています」。
そぼ
日本の場合、「農民たちは、山を霊地として崇め、山に入ることを禁忌し、山麓に祠を作って、ここに山の神霊を招いて豊作や生活の安全を祈った」んだってさ。この感覚、わかるなあ。恐れとも畏れともいう感覚。これこそ聖地って感じだね!
りさ
世界でも「山、霊力の中心、神的存在との近づきの場所として、好んで神殿や聖堂や修道院が建てられるところにもなっていきます」。修道院については、フランコ・ソットコルノラ師の文章「真命山(まことのいのちの山)」で紹介されるとおりです。
それに「山のない平坦な地で宗教施設が建てられるときにも、山のようなものにして建てられるのです」。
そぼ
ピラミッドもそうなんじゃない?
りさ
そうですし、古代メソポタミアのジッグラト、インドネシアのジャワのボロブドゥールもそうですね。
そぼ
日本だと、わざわざ建物(本殿)を建てなくても、山そのものが霊地という場合があって、「御神体山」というらしいよ。
りさ
山が神と人の出会いの場であると同時に「世界の臍(へそ)」とか「世界の軸」と考える世界観もあるようで、古代インドのメール山(スメール山)が例にあげられます。仏教やヒンドゥ教などインド成立の諸宗教に広く共有されている世界観だとか。
スメール山が漢訳されて「須弥山(しゅみせん)」と呼ばれ、中国、日本にも伝わります。
そぼ
こう説明されてるね。「(須弥山の)まわりを九山八海がとり巻き、中腹には四天王が住み、頂上には帝釈天を主とする三十三天が住む」んだって。よくわからないけど、「四天王」とか「帝釈天」とかは耳にするな。寅さんを思い出したよ。

 

山の霊性を深めた日本の修験道
りさ
ともかく、山が神と人の出会いの場であるところから「聖なる山の頂上を目指して登っていくことが、神々との出会いを準備する人間の内的錬成の象徴となっていきます」。
そぼ
つまり、修行ってことだね。日本では、さっき読んだように、古来、山を霊地として崇める農民たちは、山に入ることを禁忌としていたけど、やがて、「山林修行を重んじる仏教や道教が伝来すると、それまで禁忌の対象とされた山岳に積極的に入って修行する宗教者が現れた」らしいよ。
りさ
日本宗教史の大きな転換だったのでしょうね。
そぼ
7世紀に大和の葛城山で修行して、修験道の開祖とされているのが役小角(えんのおづぬ)っていう人らしいね。奈良時代には吉野や熊野に多くの修行者が集まったんだって。
平安仏教を開いた最澄や空海もそんな山林修行者の流れにある人だったようで、最澄は比叡山を拠点に天台宗を、空海は高野山を拠点に真言宗を開いたんだよね。
りさ
比叡山、高野山、平安仏教の両拠点はたしかに「山」ですね。
そぼ
平安仏教では、真言宗をはじめとして密教系の宗教が発展していくよね。この密教の修行をして祈りの効果を現すようになった人のことを「験者」(げんじゃ)といって、そのような力を修めた人たちが「修験者」(しゅげんじゃ)と呼ばれるようになるんだよね。さらに、修験者は山に伏して修行したことから「山伏」(やまぶし)ともいわれるようになる。
りさ
山伏というのはよく聞きますね。独特な傘のようなものをかぶっていますよね。
そぼ
あれは班蓋(はんがい)っていうらしいよ! こうした修行者たちの修験道(しゅげんどう)という山岳修行は、教派を超えて神道にも仏教にも流れていって、日本の宗教全体の大きな底流になっているんだってさ。
りさ
たしかに今見てくれている『日本宗教事典』でも、神道、仏教、道教・陰陽道に続いて、修験道が出てきて、続いて儒教、キリスト教、民俗宗教という順番に出てきていますね。
そぼ
室町時代には教義も修行法も「修験道」として体系化されて最盛期を迎え、文学、芸術、美術にも影響を及ぼしたんだとか。甲賀(こうか)、根来(ねごろ)、伊賀の忍者も山伏の系譜を引くっていわれているぐらいだ。
りさ
がぜん面白くなってきましたね。
そぼ
そして、江戸時代には山伏も村や町に定着して、庶民の現世利益欲求にこたえて加持祈祷、調伏(ちょうぶく)、憑きものおとしなどをする一方で、各地の祭や芸能にもかかわっていくんだね。神楽や田楽とか。
りさ
昭和にまで名残があったのではないですかね。
そぼ
一方、山岳修行の変形版というか大衆化現象として、富士講や木曽御岳講などの「講義」を作って登山礼拝する庶民の活動が江戸時代に盛んになっていくんだね。こうなると、だいぶ現代に近づいてきた気がする。
りさ
スポーツや観光としての登山、趣味としての登山にも近づいていますね。そのあたりは、ヨーロッパのキリスト教世界での聖地としての山や巡礼と比べてみる面白いでしょうね。山に惹かれる人間の心は東西や宗教を超えて通じているでしょう。
そぼ
キリスト教と日本文化を考えるうえで、修験道のことを考えることは大事かもしれないね。ふつうは神道や仏教と比較するだけなのにね。
りさ
もういっぱしの学者じゃないですか。参考になる本をもっと教えてもらえますか?
そぼ
いやいやー、ただの受け売りだよ。と言いつつ、何冊か紹介するね!

・宮家準著『修験道:その歴史と修行』(講談社学術文庫 2001年)
・宮家準編『山岳修験への招待:霊山と修行体験』(新人物往来社 2011年)
・鈴木正崇著『山岳信仰:日本文化の根底を探る』(中公新書 2015年)
・鈴木正崇監修『日本の山岳信仰』(別冊宝島2373 2015年)

このへんが手頃な近著かなー。キリスト教の信仰の歴史と、日本の山岳信仰をつなげて考えてみると、面白そうな感じがしてくるね。

 

旧約聖書の山
りさ
それでは、今度は聖書を調べてみましょう。旧約聖書からわかる古代イスラエルの信仰の中でも、やはり山は大きな意味があることがわかります。
そぼ
聖書の神は自らを語る神という感じがしているけれど、それが何か山と関係が?
りさ
族長の礼拝について、主である神が彼らを呼びかけた場所、いわば神と出会った場所という意味で出てきます。

「アブラム(後のアブラハム)は、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(創世記12:8)

アブラハムがイサクを献げるよう命じられるのもモリヤの地の山です(創世記22:2)。

そぼ
旧約聖書で山っていうと、やっぱりシナイ山を連想するかな。
りさ
ええ、もちろん。シナイ山はまたの名ホレブとの伝承で「神の山」(出エジプト3:1)と呼ばれます。ここでモーセは主のことばを聞くのです。

「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた」(同19:3)

そして、主が山に来臨するときはこのように述べられます。

「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」(同19:18)。

そぼ
スペクタル!
りさ
山に起こった現象と主の顕現が重ねられているのかもしれません。
そぼ
でも、山イコール神ではないというところは聖書らしいって感じがするなー。
りさ
出エジプト24章では、シナイ山はモーセを通して主とイスラエルの民が契約を結ぶ場となります。主の栄光が山にとどまっているときには、雲が山を覆うとありますね。戒めが再び授与される場面でもシナイ山の描写が重要です(34章)。
そぼ
シナイ山は、神とイスラエルの民の関係のかなめとなる場所なんだね。
りさ
契約、律法の象徴といえるかもしれません。
そぼ
もう一つ、シオンの山とか丘とかいわれるものがあるよね?
りさ
預言書や詩編で、山と語られることがいちばん多いのはシオン。実際にはエルサレムの町の東の丘なのですが、エルサレム、そして、その神殿と同義で語られる語になっていきます。

「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない」(イザヤ62:1)

イザヤが語る救いの完成のイメージは、すべての民を「わたしの聖なる山エルサレムに連れて来る」(66:20)ことなのです。

そぼ
ミサをのぞいたとき聞いたことがあるよ。「♪われ~らは シ~オ~ンで 神をたたえ♪」(『典礼聖歌』183)。あれで「シオン」ということばを覚えた。
りさ
ほんとうに詩編では、主である神との出会いの場、畏るべき方のいる場、神を賛美できる喜びの場というさまざまなニュアンスで語られます。

「主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上にいます。御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方」(詩編99:2~3)

「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ」(詩編9:12)

そぼ
まさに「♪われ~らは シ~オ~ンで 神をたたえ♪」だね。
りさ
シオンが主にとっての場というだけでなく、主の民の場としての意味が込められているように感じられる場合もあります。

「どうか、御心に留めてください。……御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったシオンの山を」(詩編74:2)

そぼ
そっか、それは、教会のイメージにもつながってくるわけだ。

 

イエスと山
りさ
では、新約聖書を見ていきましょう。「山」はイエスの生涯を物語る福音書でもとても重要です。
そぼ
ふむふむ。とっさに連想するのは「山上の説教」かな?
りさ
たしかに。でも、もっとありますよ。福音書で山とか丘が語られるときに固有名詞で出てくるのはオリーブ山ぐらいで、あとはただ「山」といわれるだけなのです。
マルコ福音書がそのレールを敷いたのかもしれず、たとえば十二使徒を選ぶとき、

「イエスが山に登って、これと思う人を呼び寄せられると、彼はそばに集まってきた」(マルコ3:13;ルカ6:12~13参照)

と書かれていますね。
それから祈るために行く所が山です。

「(イエスは)群衆と別れてから、祈るために山に行かれた」(マルコ6:46)

そして有名な変容の場所でもあります。

「六日の後、イエスは、ただ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マルコ9:2)

そぼ
どこそこの山という具体的な場所がいわれていないのが意味深だね。「山」は、なにかイエスが深い存在になっているとき、父である神と語り合うとき、神の権威をもって、弟子たちに現れるときのその場であるのかな。
りさ
そしてもちろん、マタイ福音書は最も重要な説教を山でのこととして伝えています。

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは、口を開き、教えられた」(マタイ5:1~2)

そぼ
「心の貧しい人々は、幸いである」(5:3)――有名なところだね。
りさ
並行するルカ福音書6章17節と20節だと、同じような説教を平地でしているのです。よくその違いがいわれるのですが、ルカでも、その前には祈るために行き、十二使徒を選ぶということがあってから(6:12~16)、「彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」のであって、やはり山のことは重要なシーンなのです。
そぼ
福音書をそう見ると、「山」も「平地」も全部意味深に思えてきた!
りさ
マタイ福音書の最後は、やはり山で弟子たちが復活したイエスに会う場面です。
十二人の弟子たちが、ガリラヤに行き、「イエスが指示しておかれた山に登った。そしてイエスに会い、ひれ伏した」(マタイ28:16)。
そこで「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と告げます(18節)。
そぼ
まさに天と地のすべてに対する権能を「山」という場で示すんだね。
りさ
そこから弟子たちを福音宣教へと派遣するのです。
そぼ
キリストが山に思えてきた!
りさ
名前のある山でイエスと関係が深いのは「オリーブ山」です。エルサレムの神殿の東側にある山、丘といってよいような所です。そこでイエスは神殿のほうを向いて座り、終末の出来事について告げます(マルコ13:3;マタイ24:3)。
そぼ
そのオリーブって、オリーブ油のオリーブのこと?
りさ
そうです。オリーブのギリシア語はエライアで、ここでは「エライアの山」と書かれています。マルコ(14:26)やマタイ(26:30)では、あの有名な最後の晩餐のあと、イエスと弟子たち「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」のです。
そぼ
なにか、イエスの生涯のクライマックスの近づきとオリーブ山が重なりあっている気がしてきたよ!
りさ
たしかに、使徒言行録1章6~11節のイエスの昇天に関する叙述と次の12節「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」を合わせて読むと、イエスはオリーブ山で天に昇ったということがわかりますね。
そぼ
いずれにしても、イエスは山で天と地をつなぐ方になっているってことだね。

 

聖なる都、新しいエルサレム
りさ
新約聖書が語る救いの完成のイメージは、面白いことにエルサレムが中心となっていきます。その関連で同じ意味で「シオンの山」というイメージが回帰しています。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム……です。」(ヘブライ12・22~24)

「見よ、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(黙示録14:1)

そぼ
うーん。曼陀羅みたいだな。
りさ
黙示録では新しいエルサレム、聖なる都というイメージのほうが前面に出て終わる感じです。「全能者である主と小羊とが都の神殿」そのものであるというふうに、「神の幕屋」(黙示録21:3)ともいわれ、つまり、旧約で神と民をつないだ場の記憶が、特にエルサレムの都のイメージがふんだんに使われている感じです。でも、父である神と小羊(キリスト)が人とともにいることを真に語りたいのです。
そぼ
それを神の国というならば、それは、山でもあり、都でもあるということかな。
りさ
興味深いことにその聖なる都、新しいエルサレムの中心にある神と小羊の玉座からは、命の水の川が流れ出ているというのです(黙示録22:1参照)。
そぼ
うーん。ますます曼陀羅だな。
りさ
思い出しませんか? 古代の日本人の山岳信仰の形を。
そぼ
ああ、「山岳は人間がそこから魂を授かることによって生を受け、死ぬとまたそこに帰ってゆく場所と信じられていた」か。
りさ
山は目指す頂点という意味と、そこから命の川が流れ出てくる源というイメージがあるでしょう。そう考えると、黙示録のいう「天から下ってくる聖なる都、新しいエルサレム」は、やはり「山」らしさをたたえていると思われるのです。

 

源泉かつ頂点:現代の教会に生きる山のイメージ
そぼ
そんな話、初めて聞くよ。でも、そう考えると、日本人の、だけじゃなくて、アジアの諸民族の山岳信仰との接点を幅広く考えていけるかもね。
りさ
最後に、注目してほしいことがあります。
そぼ
ほほう、何でしょう?
りさ
この山のイメージの積極的な意味合い、すなわち「頂点であり源泉である」というところが、現代のカトリック教会の意識の中にも回帰していて、さまざまに強調されているのです。

「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(『典礼憲章』10)

「感謝の祭儀(エウカリスチア)はあらゆる福音宣教の働きの源泉であり頂点であることは明らかであり」(『司祭の役務と生活に関する教令』5)

などなど。要するにミサの意味を語るときに、頂点にして源泉というイメージが告げられるのです。

そぼ
抽象的な言い方だなと思ったけれど、要するに「山」をイメージすればいいってこと?
りさ
黙示録のイメージを重ね合わせて理解するとよいかもしれません。究極的にはキリストですね。
そぼ
なるほど。ってことは、キリスト教を信じている人たちは、キリスト山の登山者なんだね。この山から受けた命を返しにいく巡礼者たちなのかな。
りさ
この山に上り下りして一週間を生き、それぞれの登山道を通って人生を生きているのでしょう。
そぼ
つらいときも、嬉しいときも、この山道の景色なんだね!

(企画・構成 石井祥裕/イラスト・脚色 高原夏希)
※聖書の引用は『聖書 新共同訳』

 


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