心の目と心の耳を開いて
問次郎 こんにちは。今回は、久しぶりに僕から質問させてもらいます。
答五郎 おお、問次郎君、いいとも。ということは、ミサ全体に関係することかな。
問次郎 はい。それは、自分も見学していてときどき迷うのですが、ミサの間、会衆席にいる人は、どこを見ていればよいのでしょうか。ミサの間、『聖書と典礼』を見ないで聞いているようにという話が前回の話題でしたけど、信徒の側から見ること、聞くことに関して何か決まりがあるのでしょうか。
答五郎 はぁ、なるほど。そこが気になったか。
美沙 はい。わたしも見学するときには『ともにささげるミサ 〔ミサ式次第 会衆用〕』(オリエンス宗教研究所発行)で式次第を、『聖書と典礼』で朗読箇所や祈願を見て、あと『典礼聖歌』など結構見るものがいっぱいあって、それらを次々と見るのは大変でした。もう見学を始めて3年半になるので、少しは慣れましたけれど……。
答五郎 たしかにね。自分の席の前に並べるものが一杯あって、落っことすこともしばしばだね。でも、それらは必要なものだし、またミサで唱えられ、歌われる文言を知り、応唱や歌に参加するために用意されているものだから、それなりに役立てて使えばよいというものだよ。
問次郎 ただ、それらばかりに目を注いでいては、ほんとうにミサに参加することにはならないのではないか、ということが前回のテーマでしたね。その心配はほんとうにあります。
美沙 わたしもそう思います。聞くことについては、司祭が唱えることば、朗読者が読むことば、先唱者や聖歌隊が歌う歌のことばを、できるだけ集中して聞くのがよいとは思います。もちろん、見ることにハンディのある人の場合は聞くことばが頼りになることはいうまでもないですね。また、文字を見ることはほどほどにと言われても、聞くことにハンディがある人の場合は、文字の手引きがなによりも頼りですよね。
答五郎 そうだね。いろいろなニーズに応えて、さまざまなコミュニケーション手段を駆使して、参加を実現するというのが、現代の典礼で配慮されなければならなくなっていることはたしかだ。全般的な課題として意識しておこう。いずれにしても、ミサの間、その式次第に沿って、いちいち会衆に対してどこを見ていなさいという明確な規定は総則のなかにもないのだよ。
問次郎 そうなのですか。
答五郎 だがね、ある部分では、ミサの流れのそこそこで会衆が何を見ているかということが暗黙のうちに前提とされているところが多々あるのだよ。主なところを拾っていこうか。まず、内陣について、つまり、祭壇や朗読台が置かれていて司祭や奉仕者が居て、いろいろと動くところについてそれが会衆から見えるようにする……という大前提がある(総則295)。それから、祭壇について書いてあるところを読んでみよう。
美沙 「祭壇は、容易に周りを回ることができるよう、また会衆に対面して祭儀を行うことができるよう、壁から離して建造する。可能なところではどこでもそうすることが望ましい。また、その位置は、全会衆の注意がおのずから集まる真に中心となる場所であるようにする」(299)ですね。
答五郎 ここが、典礼刷新前の祭壇やミサのあり方から大きく変化した点であることはたしかだろう。共同体としてささげるミサを基本型にしたことがはっきり出ているところだし、会衆の視線は、内陣や祭壇に向けられているべきだということが暗にいわれているところだよ。
問次郎 司祭がことばを発するところを見るというのは、当然のようで、あまり意識しませんでしたが、このような対面し、対話して行うことが新しいことであったわけですね。
答五郎 正確にいうと、新しくかつもっとも古いというべきだね。典礼が形作られたときの姿はそうだったにちがいないのだから。ともかく、このように司祭と会衆が対面し対話しているときに、会衆が見ているのは何かな?
美沙 直接には司祭ですけれど。
答五郎 どうだろう。「父と子と聖霊のみ名によって」「アーメン」とか、もっというと、「イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」とか「主イエス・キリストによって、神である父からの恵みと平和が皆さんとともに」とか「主は皆さんとともに」とかということばがヒントだよ。
美沙 ああ、はい。キリストがいること、父と子と聖霊である神がいることを見るということですね。
答五郎 そうだよ。この開祭のときのあいさつの対話はとても重要だね。そこで、まず祭壇が象徴し、初めのあいさつが象徴するのは、キリストがいるということ、そのことだ。なによりも司式司祭の姿がキリストを示しているということが大事だよ。
問次郎 それはよくいわれますね。○○神父だなあと思って見ていてはいけないってね。キリストを迎えているのだという意識で見ないと、ということですね。
美沙 荘重な歩き方で来るのは、もうすでに何かのしるしで、つまりキリストが来ていることを示す儀式行為だということですよね。
答五郎 そう、感謝の祭儀の進行の中では、キリストの姿を心の目で見、キリストの声を心の耳で聞くことが大事だということさ。その感覚が弱いときには、その教会の司祭と信者さんたちとの間の、単なる「朝礼」になってしまうだろう。もっとも、そういう面もあるのだけれどね、現在のミサには。
問次郎 たしかに、そんな面に期待してしまっているときもあります。世の中のことについて、どう神父さんは語るのだろうかとか。開祭のあいさつのときとか、特に説教とか、閉祭のときのお知らせの中でとか。
答五郎 その共同体固有のその日の集会という面を回復したのも現在のミサの意義だから、それも認めるけれど、やはりキリストの現存、キリストの神秘が根本的であることに変わりはない。そして、ミサの儀式行為も自然とそのことに目が行くように設定されていることに気づかないかな。思いつくのは?
美沙 福音朗読前の儀式、それから感謝の典礼は全体がそうですね。とくに、聖別のあとにキリストの御からだと御血を示すところ、そこはしっかり見て深く礼拝しますよね。それからもちろん聖体を裂くところ、「キリストの御からだ」と告げられて聖体を渡され、それに「アーメン」と応えて聖体を受け取るときもそうですね。そこは見なくてはならないというのではなく、自然と目が向けられますよね。
答五郎 そう、それが儀式行為の役割だと思うよ。注意を引き寄せるために、荘重な動作になるのだからね。それに会衆席からも心で応えなくてはならない。
問次郎 今気づいたのですが、聖体をいただいて食べるときは、見ているものが体の中に入っていくことを経験するのですよね。
答五郎 それはもちろんキリストがその人の中に入っていくということだよ。そのことを見ることができるのは、もう心の目でしかありえないだろう。福音朗読だってそうだよ。その日を聞いて、説教によってかみ砕かれて心に入ってきている(はずの)ことばを受けとめるのは心の耳のはずだよ。
問次郎 うーん。なにか深いような気がしますが、そこは信者にならないとわからないのではないでしょうか。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)