教会それはめぐみのひだまり:日本福音ルーテル教会


安井宣生

「クリスチャンではないのだけれど、教会に行ってみてもいいのですか」と聞かれることがあります。どうも、日本の教会はクリスチャン専用の場所と思われていることが多いようです。そして、クリスチャンかどうかにかかわらず誰でも歓迎しますと答えると驚かれます。

ヴァルトブルク城

教会とは誰のためにあるのかといえば、まだ教会に来たことのない人のためであると思います。神はすべての命と存在を造られたということが、聖書のメッセージです。誰もが神の大切な作品です。ですから、神の招きはすべての人に向けられています。今の時点で教会に来ている人は、なんらかの形でそれを受け止めている人たちです。とするならば、招かれているけれど、まだそれを知らないか、知っていたとしても自分には無関係であると考えている人が神と出会う場所のひとつが教会なのです。そのための場であり続けたいと思います。

ルーテル教会は、16世紀に修道士であったマルティン・ルターが起こした行動によって図らずも生まれた群れです。ルターはとても真面目な性格であったようで、修道士として期待された修行に忠実に取り組みます。そして疑いや迷いが生まれるとそれを打ち消すようにさらに熱心に努力するのでした。ところが、罪のゆるしや救いを求めて頑張れば頑張るほど、それは神に褒められたいという欲求から解放されていないのではないか、それでは神はゆるしてくれないのではないかと、さらに悩みを深くしていく負の連鎖に陥ってしまいました。

悩みつつ聖書の言葉を学び続ける中、ルターはある発見をします。それは、神は人間の行動を判定する存在なのではなく、それ以前に救う存在だということでした。神の救いは人間がそのために努力した果てに獲得するものではなくて、神の方からそれを届けようと働きかけくださる。それが一方通行であることを恵みというのです。受け取りさえすればよいのです。

ルターの部屋

私たちがする何かの努力に対するご褒美ではなくて、神が一方的にその愛情を注いでくださる恵みは、まるでひだまりのようにあたたかく一人ひとりを包みます。教会はまさしく神のひだまりです。信仰の有無にかかわらず、誰もがそこでポカポカと降り注ぐ柔らかな日差しに心の中からあたためられる場です。行動や成果が価値を定めることの少なくない私たちの社会において、存在そのものが尊いのだよと呼びかけられているようにも思います。

そんなひだまりを届けたい。神からの働きかけに力をいただくことは、それに動かされることにもつながります。誰であれ、ひだまりのぬくもりが必要なのです。教会で行われる礼拝では、確かにあなたは神の恵みのひだまりに迎えられているということで告げられます。それを分かち合いやすくするために、ルターは自分たちの言語で礼拝する道筋を作りました。その流れを受け継いで音楽の可能性を豊かに広げたのはヨハン・セバスティアン・バッハでした。礼拝に集うことは、音楽を通しても神の恵みを共に味わうことです。

それに加えて、日常の営みや人生の歩みのすべてがそうであることを伝え分かちあい、共に生きるために、教育や奉仕の働きによっても恵みのひだまりを表現してきました。

現在では当たり前となっている、福祉施設を「ホーム」と呼ぶことを始めたのはルーテル教会でした。施設ではなく地域の家族であるとの思いからです。介護の現場で利用者を拘束しないことや特別養護老人ホームの全室個室化なども始めました。これらもいわばひだまりの実現です。

中央のバラとハートと十字架がルターの紋章

私が勤務する教会は、認定こども園、障がいのある子どものホーム、同じく大人のホーム、また児童養護、そして児童心理治療に取り組むホームといった複数の働きを生み出し、またそれに支えられながら、地域に奉仕しています。ひだまりのぬくもりを味わってほしいと考えて、クリスチャンとそうではない職員が力を合わせています。現在、それぞれの働きは専門家が深く関与し、行政とも関係しながら、公的な社会資源の役割を担っています。

公的な枠組みとは別に、異なる背景を持つ人たちや生きることにしんどさをおぼえる人がひだまりを満喫できること、そしてそれを家庭や生活の場のどこか別なところへも運んでいく出発点となること。それが変わらず教会の役割であるように思いますし、そんな教会でありたいと思います。

 

安井宣生(やすい・のぶお)
日本福音ルーテル健軍教会・日本福音ルーテル甲佐教会 牧師
めぐみ幼稚園・熊本ライトハウス・広安愛児園・こどもL.E.C.センター チャプレン
全国の日本福音ルーテル教会の施設案内は、こちらもご参考ください。

 


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