閉祭もまたミサの真骨頂
答五郎 こんにちは。さて、話の流れが大きく展開してきたのだけど、どこから歴史の話になったのかな。
問次郎 はい、76回目と77回目のところで聖体拝領前の信仰告白のことばから、拝領の仕方の歴史的変遷といったところに話が移っていきました。そこでは、ミサ全般の歴史、典礼言語の話にもなりました。典礼言語のことで現在の状況や課題という話にもなりました。
美沙 あのぅ……。一つどうしても気になっていることがあって、聖体拝領のところで、信者ではない人が祝福を受けるということがありますよね。わたしも何度かそれを受けていますが、あれはどのようなものなのでしょうか。
答五郎 そうそう、聖体拝領をテーマにすると、今はこのこともよく聞かれるし、話題にもなっているね。聖体拝領に対して祝福とは何か、しかもここで信者でない人のためにそれをすることの意味は何か、などだね。でも、どうだろう、今ここにあるミサの式次第にそのことが書いてあるかな。
美沙 いいえ、ありませんね。
答五郎 つまりそれは典礼で正式に決まっている儀式ではないということさ。このようなことを典礼司牧的実践ともいうらしい。とりあえずは保留にして、式次第の勉強に話を戻すけどいいかな。さて、聖体拝領が拝領の歌が歌われているなか終わり、祭壇では、司祭と侍者がいろいろな祭器を片づけて自席に戻る。そのあとで、一つ祈りが行われるよね。
美沙 拝領祈願ですね。
答五郎 そう。これはラテン語ではオラチオ・ポスト・コムニオで、聖体による交わりのあとの祈願ということになる。したがって拝領後祈願と呼ばれるべきだという考え方もあるが、拝領祈願というほうが集会祈願、奉納祈願とも釣り合うし、すでに定着しているよね。ともかく、聖体の恵みに対する感謝や、キリストと一つになったところから生活に向かっていくという趣旨が表現されるところだ。
美沙 聖体拝領というところは、動きが多く、また聖体をいただいて食べたあとなので、ここでようやく落ち着く感じがしますね。
答五郎 ミサの式次第では、次のところからが閉祭の部分と区切られているけれど、聖体拝領のときやそのあとも歌を歌い、沈黙の中で一人ひとり祈っているところに、ようやくしばらくぶりに司式者がことばを発して、拝領祈願から次々と式文が続くので、ここがどうも閉祭の始まりのような感じもするだろう。
問次郎 信者さん方の様子を見ていると、聖体拝領がミサのピークという感じがありますね。それが終わると、ああミサも終わりなのかなぁと。結構、緊張が続いていたので、ようやく終わりかという気持ちも生まれてきますね。
答五郎 そうだね。実際ローマ典礼の古くからのやり方でも、聖体拝領、つまり交わりの儀が終わると、もうあっさりと終わるという感じだったようだ。短く、祝福を受けて、そして、「イテ・ミサ・エスト」という言葉が発せられてね。今の日本語の式文の「行きましょう」にあたる。
問次郎 「イテ・ミサ・エスト」とは「ミサが終わりました」という意味ですか。
答五郎 ははっ(笑)。たしかに「ミサ」という語が含まれているね。ただ、これは、直訳すると「イテ」が「行きなさい」、「ミサ・エスト」がいわば「これで閉会です/解散です」といったニュアンスの語だよ。ラテン語では集会の終わりを告げる文言の一つだったようだ。初期にはいろいろな表現が自由になされていたようだけれど、だんだん「イテ・ミサ・エスト」になったらしい。
美沙 でも、その「ミサ」からミサという名前になったのですよね。
答五郎 美沙さんとしては気になるところだろうね(笑)。たしかにそこが「ミサ」という名称の発生源と考えられる。いつのまにか、ラテン語圏で中心の典礼を指す名前が「ミサ」となっていったようなのだよ。かつてはエウカリスティア(感謝の祭儀)とかサクラントゥム(神秘の祭儀、秘跡の祭儀)といった語で示されていた典礼が一つ簡潔な名前を得たということになる。
問次郎 ある教会の自前で用意されていたミサの式次第では、閉祭のところが『派遣』と書かれているのを見たことがありますが……。
答五郎 そう、たしかにあるし、それは、ミサのこの部分に対する一つの解釈が反映されているといえるものだね。ミサ典礼書のラテン語の規範版では、ここは文字通り、リトゥス・コンクルシオニス(しめくくりの儀式)なので「閉祭」で問題ない。
美沙 でも、わたしはやはり「派遣」なのだと教わっていますし、それはとても意味深いなあと感心しているところでもあるのです。
答五郎 たぶん、このように派遣の意味をクローズアップするもとになったのは、閉祭という短い部分でも「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」というところにひときわ重みがあるからだろう。日本語のミサは、ここに「派遣の祝福」という見出しを付けて、その意味を説明したので、閉祭そのものを派遣と捉える見方に発展したともいえる。
問次郎 さっき、拝領祈願あたりになると、少しほっとすると言いましたが、閉祭のところで、楽しいなあと思っているところがあるのですよ。それは、「お知らせ」のところです。
答五郎 そう、式次第にも、「お知らせ」と書いてあって「必要があれば会衆への短いお知らせが行われる」とある。必要があれば、というわけで、ある場合もあればない場合もあるけれど、日曜日のミサは、やはり、信者さんたちへの案内があるよね。
問次郎 そこなのですよ。日曜日のミサはだいたいお知らせがありますよね。そこで、いろいろな会合や行事、今後の予定について案内があるのを聞いていると、その教会らしいなと思えるものが示されている感じで、それが面白いのです。
美沙 わたしも、です。その日のミサには、その日にしかない、その日必要とされるお知らせがあるからでしょうか。その日のミサを参加見学したという実感が湧くのですよ。
答五郎 このような「お知らせ」があることが、現在のミサが共同体的なミサ、会衆が集っているのを前提として、会衆の参加や奉仕がある中でささげられるミサであるという大事なしるしだよ。ミサと教会のさまざまな活動がつながっていることが示される要のようなところになる。これも現代の刷新の意味をよく示しているね。
美沙 ミサが最後に生き生きとしてくるのが楽しいのです。
問次郎 終わりが近いからではないかな。
美沙 それもありますが、なんとなく神の恵みという祝福というか、みんながそれに包まれている感じがするのですから。
答五郎 そうだね。自分もいつも感じているよ。そして、その感覚は、さっき保留にした祝福というテーマにもつながっているしね。次にはやはりそのことを考えようか。
(企画・構成:石井祥裕/典礼神学者)