言問橋を渡る――東京大空襲罹災者の受苦を偲んで


矢ヶ崎紘子

名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと   在原業平

(訳:都鳥という名前だからおまえに尋ねよう、都にいるわたしの愛する人が無事かどうかと。)

業平のこの歌にちなんで名づけられた言問通り(*1)は、文京区の東京大学本郷キャンパスと弥生キャンパスの間、本郷弥生交差点に始まり、おおむね東に向かって延び、隅田川にかかる言問橋まで続きます。橋の西側は上野・浅草、東側は向島です。この言問橋は、1945年3月10日未明の東京大空襲のおり、西側と東側の人々がどちらも、むこうへ行けば助かると思った結果、橋の上でかちあって、あるいは橋の上で焼け死に、あるいは燃えつく火に堪えかねて川に身を投げ、凍え死んだ場所です。

わたしは東京の本郷の生まれであり、言問通り近くの祖父母をたびたび谷中に訪ね、そこに住んだこともありました。だから言問通りの先にあるこの橋を見に行くことにしました。山手線の外側、上野を走る言問通りの少し南側に、親疎通りという小さな通りがあります。この通りの名は戦争に由来するもので、当時言問通りの南側100メートルの人は疎開(避難)をすることになりました。それで、戦争と疎開を記憶するためにこの名前になったのだそうです(*2)。

朝7時ごろ、親疎通りを東に歩き始めました。6月の日差しは強く、明るく、町が起き出すころでした。もっと東に歩くと、松が谷という町名になり、南側にかっぱ橋道具街があります。台所で必要なものは何でもそろうという特別な商店街です。もっと東へ歩いていくと、国際通りという大通りにぶつかります。親疎通りはそこでおしまいです。

国際通りを渡るといよいよ浅草に入ります。花やしきという遊園地があります。なつかしく楽しい気持ちになってきます。そして言問通りに出ると、橋は間近で、スカイツリーが大きく見えます。平日の朝7時半ごろでした。橋を大きなトラックが行き来していました。

橋の西のたもとに、隅田公園(台東区)があります。そこには石碑があって、こう刻んでありました。

あゝ東京大空襲 朋よやすらかに

 

石碑の前には水や花、香が供えてありました。また橋の一部のコンクリートの塊が切り出して置いてありました。碑の近くには立て札があって、こう書いてありました。

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番

隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等によりなくなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空爆により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に駆り埋葬され、戦後だび・・に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。

昭和六十一年三月 台東区

 

立て札の隣には大きな千羽鶴がつるしてありました。園内にはあじさいがたくさん咲いていました。あじさいの中で、ここに住んでいるのでしょうか、物干しをして、集めた缶をつぶしているおじさんがいました。おはようございますと言うと、おはようと返事してくれました。犬の散歩をする人、自転車で走りぬける人もいました。とてもきれいな朝でした。岸から川と橋を眺めました。橋にはいまだ、焼け死んだ人たちの血や脂が残っているのだそうです。そしてこの川面は死体でいっぱいだったというのです。

橋のたもとに戻って、むこうへ渡ることにしました。スカイツリーがいよいよ大きく見えます。空襲のあとには、ここは焼死体で埋め尽くされ、死体を踏まずには渡ることができなかったというのです。どれほどの人がここに押し寄せたのだろうか。どんな気持ちで。どこにもいきようのない人たちとの押し合いへし合い、大声、泣き声、飛行機の轟音、燃えつく焼夷弾、焦げる臭い、熱、恐怖、自分に火がつく瞬間、あるいは焼かれるよりはと川に飛び込む気持ちを想像しました。外の世界では隣を車がたくさん走っていきます。8時、日が高くなってきました。

橋を渡って墨田区側は、向島です。スカイツリーの鉄骨までよく見えます。そこにある牛嶋神社には、おおきな慰霊碑がありました。こう書いてありました。

建碑ノ言葉元本所区出身 過去戦役 事変 戦災ニ依リ 祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病災死ヲ遂ゲラレタル諸英霊ニ対シ 聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人ノ有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル同志ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ

(筆者試訳:過去の戦争、非常事態、戦災により、祖国防衛のために名誉ある戦死・病死・災害による死を遂げられた元本所区出身の英霊に対し、わずかでもその霊を慰めるために、旧本所区の在郷在郷軍人の有志と、この趣旨に賛同された同志とともに、祖国の再建発足十周年の記念の日を選んで、ここに慰霊碑を建てるものです)

昭和三十年八月十五日
靖国神社宮司 筑波藤麿 書(*3)

 

さらにその隣には小さな碑があって、こう書いてありました。

戦利兵器奉納ノ記是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ我カ武勇ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ大捷ヲ得タル記念物ナリ茲ニ謹テ之ヲ献ジ以テ報賽ノ微衷ヲ表シ尚
皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル

(筆者試訳:これは明治三十七八年の戦争(日露戦争)の戦利品の一つであって、われわれの軍人が熱血を注いで圧倒的な勝利を得たことの記念の品である。ここに謹んでこれを献上し、神々を拝してささやかな真心を表し、加えて皇室の繁栄と、国の勢いが盛んになることを祈る)

明治四十年三月 陸軍大臣寺内正毅(花押)

「尚」のあとで改行されているのは、「皇」をほかの字の下に置かないためでしょう。碑文はまだありました。


一 十吋弾丸 二箇
明治三十七八戦役記念品
右牛嶋神社ヘ寄附候也

大正二年十一月
海軍大臣男爵齋藤實

10インチ(25.4センチ)の弾丸を二つ奉納したということでしょうか。

慰霊碑と戦利兵器奉納の記を見て、隅田公園の立て札と考え合わせました。戦争に対する考えは、時代とともに変わってゆくらしいと。誰をどのように記憶するかも、移り変わってゆくらしいと。

 

言問橋に行こうと思って朝起きたとき、こころの中に声がしました。「おまえ、自分だけ幸せでいいのか? たいへんな不幸のあった場所だぞ。あの人たちの災難を考えたら、おまえも不幸になったらどうだ。それが同情ってもんだろう」。わたしは自分の幸福を後ろめたく思いました。橋に行って、1945年3月10日を想像したことは前に書きました。そして考え直しました。わたしのこころの中で、あの人たちをもう一度焼き殺すのはやめよう。わたしのこころの中では、みんな生きかえらせて、幸せにしよう。

こういってよければ、人間のこころというのは、他者を復活させることができる場でもあるのです。これは自然な考えに逆らうことです。殺された人は帰ってこないと嘆いたり、自分はそんなめにあわなくてすんでよかったと思ったりするのが普通でしょう。また、直接知っている人のことではないからこんなことが言えるのかもしれません。しかし、「誰をどのように記憶するか」という問いに対するわたしなりの答えは、かわいそうな犠牲者を越えて、大きな幸いに与るべき人として、すべての人を記憶することだと思うのです。それが、わたしが神の像たる人間として、世界を神に結びつける働きだと思うのです。

わたしは、70年前に犠牲になった人たちが、よみがえって、いまの浅草で楽しく遊んでいるところを想像しました。甘い雷おこしを食べたり、ものを売り買いしたり、外国からきた人と話したりしているところを。だれも怖い思いなどしていません。ばかげているでしょうか。でも、そうだったらいいなと思うのです。

*本文中、碑文の表記を旧字体から新字体に改めました。

(AMOR編集部)

【注】

*1 台東区の公式サイトによる。「隅田川にかかる橋

*2 台東区資料による。「台東区道路愛称名の由来

*3 この部分は筆文字である。筆者は解読できなかったので、以下を参照した。 http://airraiddiaries.com/?p=55

 


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