Maria. M. A
4月21日、私は娘と一緒に、娘の通う幼稚園で知り合った家族が通うカトリック教会に出掛け、友人家族と一緒にミサにあずかり、その後、一緒に昼食をとった。娘は友達や友達のお姉さんと遊び、普段ゆっくり話す時間のない母親同士も、子育てのことや教育のこと、日本とシンガポールの違いなど、いろんな話をして、それぞれに楽しい時間を過ごした。
前日までは、私が『教会に行こうか?』と声を掛けると、『もうこの前行ったから行かないよー。』と言っていた娘が、当日になって、急にその気になり、あわててその友人家族に連絡し、一緒に教会に行くことになった。日本で生活していた頃、毎週教会に行くことがなかなか習慣にならなかった私にしてみれば、友達と会うという楽しみのためであっても、娘と一緒に教会に通えることが嬉しく、少しずつ、自然に神様との距離が近づいて行っていることをひそかに喜んでいた。
そんなささやかな喜びやこれからの希望に満ちたイースターを過ごした翌日、夫が添付して送ってきたネットニュースで、スリランカの首都コロンボでテロが起きていたことを知った。
ホテル4カ所、カトリック教会1カ所。キリスト教徒にとって、大事な日であるイースターを狙ってのことだと報道されていたが、スリランカのカトリック人口は数パーセント。カトリック教会はコロンボ市内を中心に数カ所ある。カトリック教徒を狙うのであれば、爆破場所がすべて教会であってもおかしくないはずなのだが、詳しい情報を得るにも、なかなか難しかった。その中で、後の日本の報道から日本人数人が負傷、内1名が死亡。イスラム教徒による犯行であること、また21日以降にもさまざまな場所で多数の起爆装置や爆発物が見つかっていることなどが分かった。
同じ海外、アジア、カトリック教会。X軸とY軸が、もし少しずれていたら…、私が暮らすシンガポールがいくら安全な国だとは言っても、自分のことのように感じずにはいられなかった。
そして私が、他人事で済ませられなかったことにはもう一つ理由があった。夫が、ちょうどスリランカが勤務地となる仕事への転職に向けて動いている最中だったからである。面接を重ね、話がより具体的になるたびに、どんな国か、教育、医療、生活はどうなるか、少ない情報の中で具体的なことを調べているところだった。
スリランカは、安全な国だと知られていた。外国でも訪れるべきアジアの国の一つに挙げられていたし、美しいビーチとアーユルヴェーダやヨガが有名で、日本から一人旅をする女性も多くいるような国だった。英語が通じるし、親日家が多く、親切な人が多いと言われていた。
今回のテロについて情報を集め、我が家のこれからのことを考える中で、私の頭の中では大学時代に起きたアメリカ同時多発テロと東日本大震災の二つの出来事が思い出された。
アメリカでの同時多発テロが起きた時、私は大学生だった。私が履修していたいくつかの授業で、先生たちは授業内容を変更し、テロのことを扱った。イスラム教について学び、なぜテロが起きたのか、イスラム原理主義者とはどういう人たちなのか、どういった背景で事件が起きたのか、そして、日本でもテロが起こる可能性があるのではないかとディスカッションした。
そうした授業を通じて、それまではより身近に親しみ感じていた宗教や信仰と言うものに対して、怖さ、というか、恐ろしさ、を感じた。(今振り返ると、オウムの地下鉄サリン事件も同様のことが言えるが、事件が起きた当時はまだ中学生で、事件の詳細や背景が理解できていなかったため自分で考えるには至らなかった。)
テロの後、人々は、悲しみ、怒り、その憤りはごく当たり前のようにアメリカという国をテロを起こした側の人たちに対する制裁へと向かわせた。授業の中で、同じ学科に所属する学生が、自分の友人のお父様が、テロに巻き込まれて亡くなったことを、怒りに満ちた声で語っている姿を目にした。やり場のない怒り、悲しみをあらわに、テロを起こした人間に同じ目に合わせるのは当然だというような主張を前に、何とも言えない気持ちになった。彼の気持ちに共感はするものの、やられたらやり返しても、そこには何も生まれず、新たな悲しみを生むだけのように感じ、その悲しみの連鎖を止めるために何が出来るのだろうかと悩んだ。結局、どれだけ考えても、その時の私には、自分が納得できるような明確なこたえを見つけることが出来なかった。平和を願うはずのキリスト教徒が世界中にこれだけいるにも関わらず、世界はちっとも平和でないことに絶望し、それは私に、信者になることを止めようと決断させるほどだった。
翌年の夏、私がアメリカを訪れた際には、空港のセキュリティがより強化され、見送りの人が入れる場所が制限され、荷物検査では靴まで脱がなければいけなくなっていた。そして、9月11日という日に飛行機に乗ることは、なんとなく躊躇し、翌日の便を選んだ。
911以降、テロの内容を扱った映画がいくつも制作された。ワールドトレードセンターへ救助に向かった救急隊の話、ハイジャックされながらも衝突を回避して川に不時着させたパイロットの話。テロに巻き込まれて亡くなった人の家族のその後の話。ハイジャックされた飛行機に乗っていた人が、死を覚悟して携帯から家族に最後のメッセージを送ったことなど、当日の様子をドキュメント番組で目にすることもあった。
911の起きる前、と後、では、何かが確実に変わった。巻き込まれた人たちのことを知れば知るほど、自分のことのように考えるとまではいかなくても、いつどこで起こるか分からないことや普段と変わらない日常の中で巻き込まれる可能があることを少なからず意識するようになった気がする。
それまで経験したことのない大きな出来事に遭遇したとき、何か人生における重要な決断をするときなど、先の見えない将来について漠然と不安でいっぱいになることがある。そういう時は、どこからともなく、灰色の暗く重たい気持ちが湧きおこり、灰色のもやもやで胸がいっぱいになる。東日本大震災の起きた後、私は、そのもやもやと対峙することとなった。
東日本大震災の起きた時、私は東京で生活していた。震災の2日後の日曜日。当時ホテルで働いていた夫は、職場を離れることが出来なかった。家で一人、携帯の地震速報の音にドキドキして、余震が来るたびに、大きな揺れが来るのではないかとダイニングテーブルの下に身をひそめた。いつも通っている教会に行きたいけれど、また大きな地震が来たらどうしよう、電車が止まったら…と考えると、家を出ることが出来なかった。自分の心が灰色のもやもやですっぽりと覆われているような、そんな気分になった時、私の中ではっきりと『ちがう』という違和感があった。その『ちがう』という声は、私の心を覆った暗い気持ちを払いのけて、気持ちをまっすぐにさせた。起こってもいないことを心配して、やりたいことをやらないとはおかしい。何かが起きたら、その都度、対応すれば良い。地震が起きたら、もし電車が止まったら、その時は家まで歩いて帰れば良いんだ。教会までの道を確認して、地図を頭にいれると急いで動きやすい服装に着替え、スニーカーを履いて外に出た。実際、その後大きな余震が起こることもなく、電車が止まることもなく、無事に教会に行き、祈りを捧げ、帰ってくることが出来た。
今でも灰色のもやもやの気配を感じると、この時のことを思い出す。そうすると、自分の心のろうそくに火を灯すことができ、不思議と前へ歩みを進めることができる。
『スリランカ行きはどうする?』『行くんでしょ?』という私の問いに、夫は迷いなく『うん』と答えた。その後、『もし他の候補者がいれば、これで減るかもね。』と付け加えた。ある意味予想通りではあった。夫は、自分のやりたいことをやるし、それでたとえ事故に巻き込まれても、それが運命だったと受け入れる人だ。
日本の会社の方針にもよるけれど、私と娘の生活については、安全面が確保できるまで、状況を見守り、場合によっては別居も考えるなど、臨機応変に対応しましょうということで家族会議は終わった。
海外で事件が起こると、事件が起きた直後は、○○は危ない。そんなところに行くからだ。と日本が一番安全だと信じて疑わない主張をする人たちが少なからずいる。(今回も日本人が巻き込まれたことにより、そういう書き込みを見かけた。) 海外に行かなければ、事件に巻き込まれなかったのに、もっと治安の良い国に行けば良かったのに。スリランカと言う国の現状が知られていないためか、そういう言葉で片付けられることが多いが、それはナンセンスである。今の世の中、どこででもテロは起こる可能性がある。ボストン、フランス、バリ島、私が覚えている限り、ここ10年でいろいろな場所でテロは起きた、事件が起きた直後は、安全面を配慮し、渡航制限をかけられていたと思うが、今も制限をかけられているかと言えばそんなことはない。日本で人気の観光地であり、今でも数多くの観光客が訪れている。そして、テロが起きる国とその治安の良し悪しを結びつけることはできないと思う。安全だと言われているシンガポールでさえ、数年前にはインドネシアからマリーナベイサンズを狙ったテロの計画があり、事前に情報をキャッチした政府が対応し、未然に防いだ。
そして、日本であっても、新幹線の中で焼身自殺を起こした人間がいたり、ガソリンが持ち込まれたことで新幹線はセキュリティチェックの甘さが指摘されていたにも関わらず、刃物を持ち込んで死傷事件が起きている。
今の世の中、いつ、どこでテロが起きるのか、誰にも分からない。政府は国民の安全を考え、情報を収集し、対応してはいるけれど、完全に防ぐことは難しく、だから人々が警戒しながらもテロが起こり続けているのだと思う。テロに怯えて消極的に日々の生活を送ること、それこそテロリストの思うつぼではないだろうか。テロリストに屈することなく、最善の注意を払いつつ、自分のやりたいように自分の人生を生きる。それが、テロに対して今の私にできることではないかと考えている。
娘は、今、シンガポールの地元のカトリック幼稚園に通っている。幼稚園では英語と中国語を話し、白人、インド系、マレー系、チャイニーズ系、韓国人、娘の他にも日本人がいる。カトリックの幼稚園ではあるが、カトリック信者の家庭ばかりというわけではない。(シンガポールには、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒が生活しており、それぞれの宗教のお祝い日が平等に国の祝日として定められている。)そのため、幼稚園で出される食事は、イスラム教徒に配慮し、ハラルのメニューになっている。これは、みんなで同じものを食べることを大事にしたいという幼稚園の考えに基づいてのことである。
肌の色、目の色、髪の毛の色、いろんな見た目の人がいて、いろんな言葉を話す友達がいる。何人であるとか、出身がどこであるとか、どの宗教を信仰しているかは何も関係なく、娘は、どの子も『私のおともだちなの』と、私や夫に紹介する。娘にとってはそれが当たり前で、そこには何の差別もない、テロとは真逆の、平和な世界が広がっている。その平和な世界に触れるたびに、娘をこのまま、今を共に生きている、みんなの平和、『世界の平和』を願うことが出来るように、導いていくことが、テロに対して私ができる、もうひとつのことではないかと思っている。
テロが起きるたびに、ニュースで、巻き込まれて亡くなった人たちの家族が泣き、叫ぶ様子を目にする。そのたびに、テロを起こした人間がその状況を見て、何と思うのだろうと考える。テロの起きた現場を見せて、これがあなたが望んだことなのかと問いたくなる。
もし、すべての人が、自分の幸せを願うのと同じように、他の誰かの幸せを願うことができれば、テロが起きることはなくなるのではないかと、私は信じている。
(カトリック信徒、日本出身、シンガポール在住)