ミサはなかなか面白い 78 「取って、食べなさい」……交わりの儀の原風景


「取って、食べなさい」……交わりの儀の原風景

答五郎 こんにちは。前回は、聖体拝領前の信仰告白について、規範版にあるのは、百人隊長のことばだという話をしたね。

 

 

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問次郎 はい。長さからも内容からもだいぶ難しいのではないかという話でした。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それを考えるためにも、聖体拝領というものやそれに対する意識がどう変わってきたか、歴史を振り返ってみることになったと思います。

 

 

答五郎 そうだ。「聖体拝領」と日本語では言うけれど、ここの儀式全体は「交わりの儀」と言われるだろう。じつはラテン語ではコムニオ communio で、共有や参加を意味する語だった。なんとかこのニュアンスを表そうと、「交わり」という言葉が導入されたのだよ。ただ「拝領」も注記や説明ではやはりまだ使われているよね。ヨーロッパの各国語はcommunioを踏襲している感じだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「拝領」……「うやうやしくいただく」という語感とはずいぶん違うのですね。最近よく聞く「分かち合う」に近いのでしょうか。

 

 

答五郎 どうかね。ただコムニオはもうキリスト教独自の用語になっていることから辞書にも「聖餐」という訳語が入っているぐらいだよ。いずれにしても、イエスが定めた意味で、パンとぶどう酒を食べ飲みする行為が前提になっていることはわかるね。

 

 

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問次郎 最後の晩餐について語る聖書の部分を見ても、弟子たちがイエスから与えられたパンとぶどう酒の杯から食べ飲みしたことは自然に思っていました。読んでみてくれる?

 

 

女の子_うきわ

美沙 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。…』」(マタイ26・26-28
新共同訳)ですね。食べること、飲むことははっきりしていますよね。

 

答五郎 パンが「キリストの体」で、杯のぶどう酒が「キリストの血」、その意味の語り方は、他の福音書の箇所(マルコ14・22-24;ルカ22・19-21)で共通点や独自点はあるけれども)、それを食べ飲みすることが、キリスト教の典礼(ミサ)の始まりだよね。

 

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問次郎 イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言ったとありますが(1コリント11・24、25参照)、ほんとうにそれをしてキリストの記念行為として受け継がれていくのですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 その受け継ぎの先に、今のミサもあるとすると感動します。2000年の時を過ごしてですもの。

 

 

答五郎 ただ、厳密にいうとこの記念の行いは「食事」だろうか?

 

 

 

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問次郎 ええ! 今、食べ飲みする食事だと確認したではないですか?

 

 

答五郎 ところがね、どう見ても、普通の食事の飲食とは違うところがあるだろう?

 

 

女の子_うきわ

美沙 パンや杯を取って、賛美の祈りや、感謝の祈りを唱えたというところでしょうか。

 

 

答五郎 たしかにそれがひとつ。それと、どうだろう。普通の食事だとパンを自分で手に取り、杯も置いてあるのを自分で手に取って飲むだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 あっ、そうですね。ここは、イエスがパンを裂いて、そこから皆が取って食べますし、杯も取って、弟子たちに渡して、そこから弟子たちは飲むという流れです。

 

 

答五郎 普通の食事とは、祈りがあることと、イエスから与えられたものを受けて飲食するというところが違うといえるだろう。これだけでも、食事の姿はしていても、普通の食事とは違う、キリスト教的意味と形がある食事ということだろう。典礼的食事、その意味で「聖餐」だ。

 

女の子_うきわ

美沙 イエスから与えられて受けるというところには「拝領」というふうに訳してもよいという根拠もあるのではないでしょうか。

 

 

答五郎 なるほど、それはいえるね。ちなみにイエスが与えることを受け継ぐのが、今ミサで、司祭が一人ひとりに「キリストの御からだ」といって聖体を渡すところだけれど、それを「聖体授与」という。「拝領」も「授与」も言葉として固いけれど、根本は「与える」と「受ける」だから、福音書で述べることが続いていることはわかるだろう。

 

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問次郎 賛美や感謝の祈りをしたというところはどうですか。イエスが独自に行ったのでしょうか。

 

 

答五郎 いや、ユダヤ人の信仰生活の中で、すでに食事が宗教的というか、神への感謝や賛美を告げ、願いを込めていく祈りで包まれた食事、その意味で会食儀礼、宗教的食事というのがあって、過越祭とか安息日など年や週の祝祭日に行われていたのだよ。細かな式次第や祈りの式文のようなものは、のちに成文化されるのだけれど、パンを取ってとって祈りをして裂いて渡すとか、杯を取って祈りをして渡すという行為が基本だったのだよ。

 

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問次郎 すると、イエスもそういうユダヤ教の祈りの食事が身に着いていたのですね。

 

 

答五郎 そうだと思うよ。少ないパンと魚で、5000人や4000人を満たしたという話がどの福音書にもあるだろう(5000人=マルコ6・30-44;マタイ14・13-21;ルカ9・10-17;ヨハネ6・1-14 4000人=マルコ8・1-10;マタイ15:32-39)。

 

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問次郎 パンの増加の奇跡ですね。

 

 

答五郎 このエピソードはいろいろな意味を含んでいるのだけれど、イエスの動作に注目すれば、パンと魚を取って、賛美の祈りまたは感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡して、弟子たちがさらに人々に配るという行動がほとんどパターン化して記されているのだよ。

 

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問次郎 これは、すでにミサのイメージを込めて書かれているのではないですか?

 

 

答五郎 そういう面もあるかもしれない。福音書がまとめられて読み継がれていく時代には、もちろん感謝の祭儀(ミサ)が形成されているから、それとの関係で、これらの奇跡話も受けとめられていったことは確かにあるだろう。ただ、素直に読めば、イエスは地上の生活の中で、ユダヤ教的宗教生活の一つの慣例行為として食事を行っていたようでもある。

 

女の子_うきわ

美沙 ちょっと読んで感動したところがあるのですが、ルカ24章です。エマオに向かう弟子たちに現れていたとき、最初彼らはイエスだとわからなかったのに、泊まる家で「食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(ルカ24・30)、すると二人の目が開かれて、イエスだとわかったというのです。

 

答五郎 そのときの動作も同じだろう。イエスがパンを取って、賛美の祈りや感謝の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちがそれを受けて食べるという一連の動作が、感謝の祭儀、現在のミサの原風景であることは間違いないだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 そうなのですね。そのことを行い続けるなかで、その中心にイエスがいることが、まさにその食事でもって生き生きと思い起こされていたのですね。

 

 

答五郎 まさにそう。典礼でいう「記念」とはイエスの現存を実感することなのだよ。では、新約聖書から窺える使徒時代のこの食事の様子は次回見ることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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