私にとっての祈り


ニコラオ(カトリック北見教会Twitter担当)

さて、「祈る」……まずは辞書引いてみました。
「よいことが起こるようにと神に願う」……なるほど。
良い事、良い事ねぇ……

東京から帰ってきた日、焼ききれんばかりに東京での経験を神父様に叩きつけてしまって諌められた日に、セルフコントロールが効かなくなった自分がどうしようもなく情けなく、無心に祈りました。
人生で初めて、涙がボロボロ出るほどに無心に祈りました。
無心で祈り、祈りを終わらせるために告白し、許しを受けたあと「自分にもそういう、絵に描いたような宗教的神秘が起こる日が来るものなのか」と妙に感心してしまいました。
情けないさらけ出しですねぇ……いやー、でも本当に人に迷惑がかかるレベルで想いが止まらなかったんです。
「よいことが起こるように」と強く願いすぎると、時に人間関係を台無しにしてしまうことがあります。

祈ることには意義があります。
同時に責任も伴います。
大きな祈り……例えば災害に苦しむ兄弟たちのために祈るのであれば、多少の責任の至らなさは同じく祈る兄弟たちの勇気も信じて、彼らのためにも祈ることが出来ます。
そうではない時、例えば僕のクリスチャンではない悪友たちが(ごめんよマイフレンド、いつも悪趣味のほじくり合いを秘密にしてくれてありがとう。)悪趣味がたたって傷ついて悲しみの中にいる時、僕はどうしても祈るのをためらいます。
もしこのしょうもない、出来ることなら秘密にしておきたい趣味を共有してくれる仲間たちが、祈りを通してそれぞれの人生の悪趣味を認めてしまい、今までのように人生を楽しめなくなった時にどれほど悲しむだろうか?

日々祈る中でいつも気になることなのですが、私たちは祈る時、自分に祈りやすいように祈ろうとしてしまうことがあります。
これは仕方がないことだとも言えますが、実感が及ばないことをうまく祈れないのです。
例えば、僕が知らないアフリカの内戦に対して祈ろうとする時、僕はそれをどう祈ればいいんでしょう?
すべての戦争に苦しむ人間が単純な被害者では居続けられません。
たとえ自分の意志で加害者になったとしても、仲間の死を抱えきれず、悲しみの果てに銃を持つことを決めたかもしれない彼らに銃を置くことを祈ってよいのでしょうか?
それに気がついた時、簡単に祈れないじゃないかと、自分の祈りに戸惑いを覚えます。

そんな祈ることの責任、むしろ多くの場合は祈ることの無責任に気がつく度に「祈りの困難さ」にぶち当たります。

人間が常に何処かで罪を抱えずに生きていけないのと同じ様に、残念ながら世の中は平穏ではありません。
その中で少しでも平穏が訪れるようにと祈る時、誰かの平穏のために傷つく人に気がついてしまいます。
僕はどうしてもそれが怖いのです。
理屈では分かります。
平穏の奪い合いが人を苦しめるのであれば、奪い合いを辞めてしまうのが一番です。
それが自分にできるのであれば、きっと誰でもそうします。
でもどうしてもそれが出来ない時には?

手が止まります。
いくつもの自分の「捨てられない平穏」が浮かんではさらけ出せずにしまい直し、僕の捨てられないものの多さに呆れてしまいます。

主よ、祈りをためらう僕を憐れみ、清い心でよどみなく祈ることを教えてください。

 


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