ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『クリストフォロ』
稲川保明(カトリック東京教区司祭)
今回の絵はキャンバスにではなく、フレスコ画としてヴェネツィアのドゥカーレ宮殿に描かれたものです。モチーフは「クリストフォロ=キリストを担った者」です。
この伝説の聖人の名前は今でもよく知られており、旅の安全を守る聖人として自動車にそのメダイを付けている人もいます。中世の『黄金伝説』(ヤコブス・デ・ヴォラギネ著)によれば、彼は洗礼を受ける前はレプロブスという名であったとのことです。カナンの地で生まれ、身の丈が12キュビット=5.4m(1キュビット=45cm)もあったという巨人です。サムエル記上に登場するゴリアテに匹敵するほどの巨体です。
彼は、この世で最も強大な王に仕えようと旅に出ます。やがて、この世で最も強い者であると自分で言っている悪魔に出会い、悪魔と旅を続けます。旅の途中で道端に小さな十字架が立っているのを見て、悪魔はおびえ、恐れおののきます。こうして彼はキリストの名前を知りました。そして、どうしてもキリストに会いたいと思い、砂漠で修業する隠修士のもとに行き、断食と祈りを勧められます。しかし、祈りも断食も苦手なことから、隠修士の勧めで、大きな川のほとりに住まい、川を渡る人を助けながら、キリストとの出会いを待ち続けます。
ある夜のこと、彼の住んでいる小屋の近くで幼い子どもの声が聞こえます。「向こう岸に渡りたいのです」と。彼は「お安い御用だ」とその子を肩に乗せて川に入り、向こう岸を目指します。ところが、水かさが急に増し、流れが激しくなり、彼は溺れそうになり、さらに羽のように軽いと思っていた子どもが鉛のように重くなります。やっとのことで川を渡り切り、子どもを下ろして言います。「やれやれ、大変な目にあった。それにしても世界を肩に乗せても、こうまでは重くなかったに違いない」。すると、その子が「そのはずです。あなたは世界を創った者を肩に乗せたのです」と言い、また彼の杖を小屋のそばに植えるように命じました。翌日の朝、その杖には花が咲いていました。イエスの姿は見えませんでしたが、クリストフォロは生涯、キリストの教えを守り、また語る人となりました。
【鑑賞のポイント】
(1)力強いクリストフォロの全身がダイナミックに描かれています。彼の持っている杖に葉がついているのは、『黄金伝説』のエピソードに基づくものです。
(2)幼子イエスの顔は涼し気で、右手を天に差し伸べています。クリストフォロの顔は驚きと戸惑いを感じる表情です。
(3)水は、まだくるぶしを隠す程度ですが、これから川の深みに入ってゆくところなのか、それともようやく危険を脱して、浅いところまでたどり着いた瞬間なのか、私は後者だと思います。クリストフォロの表情には自信に満ちたというよりも、何故、この幼子がこんなにも重いのだろうという戸惑いを感じさせるからです。
(4)いかにもヴェネツィアで活躍したティツィアーノらしく、遠景にはヴェネツィアの町並のような背景が描かれています。