鵜飼清
昨年(2018年)は明治150年が話題となり、「日本の近代」について考える機会が開かれた年ともなったようだ。大河ドラマでは西郷隆盛が主役の1年だった。いわば官軍の側の主要人物だったのだが、ここでは幕府側の人物として榎本武揚を採り上げてみたい。
榎本は、1836年(天保7年)江戸下谷御徒町柳川横町(現在は台東区浅草橋近辺)で、幕臣の榎本武規の次男として生まれた。昌平坂学問所で学んだ後、長崎海軍伝習所の第2期生として入学し、機関学や化学などを学んでいる。そして江戸に戻ると海軍操練所の教授となり、ジョン万次郎の私塾で英語を習得する。
1862年(文久2年)に幕府がオランダに蒸気船の軍艦・開陽丸を発注した際、オランダに留学することになる。榎本はハーグで造船術、船舶運用術、砲術、国際法規などを学んだ。開陽丸が竣工すると、榎本らの留学生は開陽丸に乗船して1867年(慶應3年)3月26日に横浜港に着く。幕府は5月に榎本を軍艦役・開陽丸の艦長に任じ、7月には軍艦頭並とするが、時はまさに幕末動乱の真っ只中であった。慶應3年の10月には将軍慶喜が大政奉還を朝廷に提出し、12月に朝廷が王政復古を宣言する。
慶喜の構想ではあくまでも天皇の下での諸侯会議で新たな国家首班に就くという公武合体による政権(公議政体論)を睨んでいた。しかし、薩摩藩の討幕への動きが著しくなり、1868年の1月には鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が起こる。緒戦に勝った薩摩はそれに付け込んで仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍として「錦の御旗」を掲げ「われらに逆らう者は、朝敵となり逆賊である」と触れていった。こうした心理作戦も有効に働き、また慶喜が大坂から江戸へ戻ってしまうこともあり、旧幕府側が敗退していく。
4月11日の江戸開城に伴い、新政府が旧幕府艦隊の引渡しを要求するが榎本はこれを拒否する。勝海舟の説得により、4隻を引き渡すが、開陽丸などの主力船は抱えていた。旧幕府の抗戦派は、奥羽越列藩同盟を結んで新政府側に戦いを挑んでいた。榎本は徳川家達の駿府移封が決まると、開陽丸、回天丸、咸臨丸など8隻からの旧幕府艦隊を率いて奥羽越列藩同の支援に向かう。奥羽越列藩同盟が瓦解してくるなかで、9月に仙台藩が降伏すると、榎本は大鳥圭介、土方歳三ら旧幕臣のおよそ3000名を船に乗せて、箱館に向かった。12月15日、蝦夷地を占領し、五稜郭を本営とした。しかし、その前の松前藩攻撃の際、開陽丸を江差へ掩護しに行ったとき座礁させてしまったのである。榎本にとっての不運の端緒であった。
榎本は箱館を貿易を主とした「独立政権」にしようと企んでいた。榎本がオランダから持ち帰っていた『海律全書』は、『海上国際法』あるいは『海上万国公法』とも呼ばれる「国際法」についての専門書だった。その国際法の知識を武器に、箱館で近代国家建設をしようと考えたのである。具体的な政府樹立に着手し、
総裁―榎本武揚
副総裁―松平太郎
海軍奉行―荒井郁之助
陸軍奉行―大鳥圭介
陸軍奉行並(兼箱館市中取締裁判局頭取)―土方歳三
などが選任された。
しかし、局外中立の立場をとっていた諸外国は、箱館政府が財政面などでの窮状を知ると、蝦夷地の秩序を守る力がないと判断し、明治政府を日本で唯一の正当な政権と認めるのだった。
新政府軍は5月11日に箱館総攻撃を開始する。箱館政府軍は孤立しながらもしぶとい戦いを続けていた。新政府軍の統率にあたっていたのが薩摩藩の黒田了介(清隆)だった。黒田参謀は箱館病院の医師・高松凌雲に降伏の仲介を依頼した。箱館政府軍の側の凌雲が敵味方なく負傷兵の治療をしていることを知っていたからである。
凌雲らの文書を読んだ榎本は、降伏するつもりのないことを書いた返書を使者に渡す。そのとき大切にしていた『海律全書』も黒田に託した。もはや自分が持っていても役立てることができないから、新政府側でこれからの国のために使ってほしいと考えたのである。黒田はその返礼に鮪5匹と酒5樽を榎本に贈った。黒田は、榎本たち逸材をみすみす死なせたくはなかった。これからの国づくりに必要な人材だと思っていたのである。
榎本は小姓に介錯を頼み、自刃しようとするが、隣室にいた者たちに引き止められた。そして17日の午前6時過ぎに、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助の4人が五稜郭を出て黒田了介参謀と会し、降伏を申し出た。土方歳三は、一本木関門で11日に戦死している。
榎本ら箱館政府軍の幹部たちは東京へ護送され、6月30日に兵部省軍務局の牢獄に収監された。榎本が蝦夷地を占領する前に、江戸は東京と改称され、時代は明治と改元されている。獄中での榎本は、牢内の少年に学問を教えたり、兄の家計を慮って石鹸などの製造法を伝えている。
政府内では木戸孝允ら長州閥の人間らが榎本たちに厳罰を求めていたが、黒田清隆、福澤諭吉らが助命の動きをした。特に黒田は榎本の助命のために剃髪までしている。こうした助命への尽力が功を奏し、1872年(明治5年)3月6日に、榎本が放免となった。
釈放後の榎本は、新政府に仕える。黒田が次官を務めていた開拓使に任官され、黒田と共に新しい国づくりに邁進する。樺太千島交換条約の締結、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度がはじまると、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、子爵となる。東京農業大学の前身などの団体も創設した。
こうした榎本の働きは、好感を持って受け止められることばかりではなかった。幕臣でありながら、薩長閥の政府に仕えたことで、逆賊の汚名を背負って働かなければならなかったのである。しかし、榎本が外国で学んできた豊富な知識を惜しみなく新国家建設に供与していった生き方は見事というほかはあるまいと思うのである。黒田との篤い交友は生涯続き、黒田が死去した際には、葬儀委員長を務めている。
内村鑑三は『代表的日本人』のなかで西郷隆盛を取り上げている。西郷は不平士族の熱情を一心に集め西南の役で散っていった。そこに武士道の精神を見ることができよう。榎本も旧幕臣たちの抗戦派と共に蝦夷地で戦った。内村の「後世への最大遺物」を捉えるとき、私は榎本武揚の生涯を思うのである。
内村の門下である矢内原忠雄が『余の尊敬する人物』として表したことに倣えば、私はカトリックの信者として、まずマキシミリアノ・マリア・コルベ神父を採り上げるが、日本人では榎本武揚と考えている。榎本は、1908年(明治41年)10月26日、73歳で逝去した。
私の著書『土方歳三の遺言状』(新人物往来社刊)を書くときに、幕末維新の転換点ともなった鳥羽・伏見を歩いた。その書物に
京都競馬駐車場脇の高架下に、『史跡戊辰役東軍西軍激戦之址』という碑が建っている。ここも激戦地の一つで、千両松といわれる所だ。石碑には次のような碑文が刻まれていた。
《幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり いづれもが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽くした 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり或る者は幕軍となって 士道に殉じたのであります こゝに百年の歳月を閲し 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる 誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る 在天の魂以って冥すべし
中村勝五郎 識す
昭和45年春》
この碑文とはあまりにもかけ離れた、情景と時のなかにいた。ゆっくりと淀駅への道を歩いていると、うっすら曇った空に、しゃぼん玉を飛ばしたい衝動に駆られた。
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた
.
と書いた。
いまもそのときのことを思い出しながら、幕末の志士たちの魂が天の国に届けと希い続けている。
(評論家)