二つの新しい聖書


土屋至

二つの新しい聖書の翻訳が刊行されているので大枚をはたいて購入した。

一つは、『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会訳 いのちのことば社 2017年10月刊)である。この聖書の帯には、

「最新の聖書学に基づく翻訳 原典に忠実+自然な日本語」

1.聖書学の進歩を反映 長年の研究に踏まえ、最新の底本に基づいて訳文を変更
2.原典に忠実 新改訳の特徴である“原文が透けて見える”翻訳を継承
3.朗読に適した読みやすい日本語 過度に丁寧な箇所を改め、日本語として、より自然な文章に

 

というように謳っている。

もう一つは『聖書 聖書協会共同訳』(日本聖書協会刊 2018年12月刊)である。この聖書の帯にあるコピーを紹介しよう。

「変わらない言葉を変わりゆく世界に 31年ぶり、ゼロから翻訳」

特長:
■カトリック、プロテスタント教会による「共同訳」
■礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳
■聖書協会聖書として初めて聖書全体に引照と注を付す
■固有名詞、書名は『聖書 新共同訳』に準拠
■巻末付録として、カラー聖書地図12葉、143語の用語解説を付す

 

二つともに「朗読聖書にふさわしい格調ある日本語」をウリとしているようだが、今ひとつなぜ今新しい翻訳が必要だったのかは伝わってこない。

 

聖書の読み比べ1「心の貧しき者」(マタイ5章3節)

新しい聖書の翻訳が出てくるときに、いつも読み比べるところが3つある。

一つは「山上の垂訓」「真福八端」と呼ばれているところの「心の貧しき者」の部分(マタイ5章3節)である。

『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会訳 いのちのことば社 2017年10月刊)

これについては既成の聖書の翻訳を読み比べてみたことがある。

心の貧しきものを考える

心の貧しき人は幸いである。(外部サイト)

旧い聖書はみな「心の貧しき者(人、人々)」の訳であるが、比較的新しく訳されたものは違う翻訳を採用している。ただし両方とも「直訳『霊において貧しい人』」という脚注がついている。

それで今回はどうかなと胸轟かせながら読んだのだが、両方とも「心の貧しい者は幸いです」(新改訳)、「心の貧しい人は、幸いである」(共同訳)で、がっかり。もっと気のきいた表現はなかったのだろうか?

前回の新共同訳の翻訳チームは別の翻訳を提案したらしいが、聖書協会の方から「心の貧しい者」という表現が定着しているからということで却下されたそうだ、今回も聖書協会訳というのが前面に出ているので同じような背景が想像される。

 

聖書の読み比べ2「イエスとペトロ」(ヨハネ21章15~19節)

もう一つはヨハネ福音書の最後の方の「イエスとペトロ」(ヨハネ21章15~19節)の部分である。イエスは3回ペトロに「私を愛しているか?」ときき、ペトロも3回「愛しています」と応えるところである。

ギリシャ語原典では、イエスは最初の2回を「アガパオー」という動詞で聞くのだが、ペトロは「フィレオー」という動詞で応える。イエスは3回目には「フィレオー」できき、ペトロも「フィレオー」で応えるというようになっている。

ここの部分、これまでの聖書はほとんどが「愛する」という日本語に訳され、原典の動詞の違いは翻訳にはいかされていない。かろうじて山浦玄嗣訳の『ガリラヤのイェシュー:日本語訳新約聖書四福音書』(イーピックス出版 2011年)がペトロの答えに「首ったけ」という訳を採用している。

それでここの部分は新しい翻訳ではどうなっているのか。またまたがっかり。両方ともに「私を愛しているか」でアガパオーとフィレオーの区別は日本語の翻訳上ではない。

もっともイエスはギリシャ語を話さなかったので、この部分はアラマイ語で話したのだろうが、アラマイ語にはこの区別があったのだろうか? そこはわからない。

 

聖書の読み比べ3「十戒」(出エジプト記20章5節)

もう一つ気になる翻訳箇所がある、旧約の出エジプトの「十戒」の場面である(出エジプト記20章5節)。

『聖書 聖書協会共同訳』(日本聖書協会刊 2018年12月刊)

この部分、新共同訳以外は「私は妬みの神」と訳されているが、なぜか新共同訳だけ「私は主、あなたの神、私は熱情の神である」となっている。旧約の原文は「妬み」と「熱情」は同じ語源なんだそうで、どちらも間違えではないそうだ。この部分、岩波聖書は「熱愛する神」となっている。

それで新しい翻訳は、これも両方ともに「妬みの神」という翻訳に戻っていて、ちょっとほっとした感じである。

ここは文脈から「妬みの神」以外ないと思う。旧約の神はとても嫉妬深いというのは歴然としていると私は思う。それを「熱情の神」ときれいごとに訳すのはゼッタイおかしいと思う。

 

最初の「心の貧しき者」についてはいろいろな聖書を読み比べたが、あとの二つにおいてはまだ全部の翻訳にあたったわけではないので、こんな翻訳になっているというのがあったら紹介してほしい。

また新しい翻訳に特長がある所を発見したらこれも紹介してほしい。

(SIGNIS Japan 会長、聖パウロ学園高校講師「宗教」担当)

 


二つの新しい聖書” への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

10 + 15 =