小林珍雄~~バチカンとカトリシズム紹介の大先達


石井祥裕

バチカン関連の書籍を探していて、小林珍雄(こばやし・よしお。生没年1902~80)の著作が三冊も見つかった。『カトリック大辞典』の編集者として知られていた名だったが、このたび初めてその生涯と業績の全貌を把握することができた。『カトリシズムへのかけ橋―小林珍雄遺稿・追悼文集』(同文集刊行会編、エンデルレ書店、1980年)のおかげである。

 

小林珍雄(出典:『カトリシズムへのかけ橋―小林珍雄遺稿・追悼文集』同文集刊行会編、エンデルレ書店、1980年)

岩下壮一との出会いから拓かれた道

小林珍雄。カトリック信徒で、上智大学をはじめ教職に就きながら、同時にバチカンやカトリシズムを日本の読書界に紹介する本を執筆。とくに単行本だけでも90冊に及ぶ翻訳書のほか、のちに不可欠となる事辞典類の編集も多い。上智では「コバチン」と愛称されていた人気教授。1960年代、70年代にはとても有名な人物だった。

1902年3月2日、横浜市生まれ。1926年東京帝国大学法学部卒業するのだが、卒業間際に肋膜を患い、卒業後2年間、静養を余儀なくされたという。その時間を聖書を台本とした英語・フランス語・ドイツ語の習得にあてたことが生涯の土台を築いた。回復とともに学士入学として帝大文学部宗教学科に入るが、幻滅。法学部の大学院に転籍して南原繁(1889~1974。政治学者)のもとで中世における教会と国家の関係をテーマに研究したのがカトリック思想と触れる始まりとなった。このテーマに彼は生涯携わることになる。

ちょうどその頃、帰国したばかりの岩下壮一神父(1889~1942)が帝大で「カトリック研究会」という名で連続講演会を行っていた。それに参加したことで岩下神父に声をかけられ研究上の助言を受け、交流が始まる。岩下神父の蔵書(岩下文庫)から主にカトリック教会史の本を借りるなか、信仰を求める気持ちが高まったという。1931年6月28日、29歳のとき上智大学内でヨハネス・クラウス神父(1892~1946。イエズス会司祭)司式により洗礼を受ける。代父は田中耕太郎(1890~1974。法学者、法哲学者)。洗礼名は出版事業の保護聖人とされるフランシスコ・サレジオであった。

図1:小林珍雄著『岩下神父の生涯』

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カトリシズム紹介者としての歩み

1931~33年、スイス、フランスに留学。1935年結婚。同年、ドイツに留学。1938年以後、上智大学教授、中村高等女学校教諭になり、戦後も、上智大学、中村高等学校を教育の拠点として長く勤める。その業績の中で、もっとも印象深いのは、カトリシズム紹介者としての著作・編集作品の数々である。そのライフワークの直接の母体は岩下壮一であった。彼自ら恩師の伝記『岩下神父の生涯』(図1)をささげ、自ら編纂した『岩下壮一全集』全9巻(中央出版社、1961~64年) の別冊として収めている。

 

(1)精力的にバチカンを紹介

まず注目すべきは、バチカンを紹介する数々の書。戦前、バチカンを紹介したものに1928年の山本信次郎(1877~1942)の書、1931年の戸塚文卿神父(1892~1939)の書があった。二人とも岩下神父と関わりが深く、大正から昭和初期にかけて、日本にカトリシズムの位置を築くために尽力した人物たちである。

小林は戦後まもない1946年に『ヴァチカン市国』(中央出版社、図2左)を出し、大戦後大きく変貌した国際世界の中で新生日本が知るべき存在としてバチカンの本質や役割を紹介している。彼は「法王庁」という表記を使い、その歴史解説の中では特に1929年のラテラノ条約の内容を詳しく解説している。

図2:小林珍雄著『ヴァチカン市国』『法王庁と国際政治』『法王庁』

第2の書は1949年、岩波新書で出された『法王庁と国際政治』(庁と国は旧漢字。図2中央)。法王庁の組織説明も含むが、カトリック的な国家論、国際政治論の解説が主で、同年出版の論集『宗教と政治』のダイジェスト的な内容ともなっている。第3の書は、同じく岩波新書で1966年に出された『法王庁』(図2右)。第2バチカン公会議に至った段階でのバチカン市国および法王庁についての概説である。現在の教皇庁(聖座)の組織を知るためには古いとはいえ、その時々のバチカンの“現在”を知る上ではいまなお有効であり、歴史解説の内容、そこに流れる史観は今も味わうに値する。

 

『カトリック大辞典』全5巻(冨山房、1940~60年)

(2)カトリック用語の統一と説明に尽力

昭和に入ると、洋書翻訳がいっそう盛んになり、カトリック関係の訳語の統一が求められる気運にあった中、『カトリック大辞典』の企画が持ち上がる。小林珍雄は、クラウス神父とともに1935年、ドイツに渡り、ヘルダー社との契約など準備に参画。以来、1940年の第1巻出版から1960年における全5巻完結(冨山房)まで一貫して監修を指揮、編集実務責任者の役割を果たした。

執筆陣への依頼とともに用語の統一の図るためには用語マニュアルが必要とされていた。その副産物として、彼は1937年『キリスト教用語小辞典』を編集、光明社から出版している。近代日本のカトリック教会においては、1894年、司教会議の申し合せに基づいて作成された「日本布教に使用される若干の宗教用語の和訳書」(内容は仏和カトリック用語集)以来の用語辞典となった。

『カトリック大辞典』編集陣。後列右端が小林珍雄。前列左はチト・チーグレル神父、右はクラウス神父(出典:前掲『カトリシズムへのかけ橋―小林珍雄遺稿・追悼文集』)

『カトリック大辞典』は戦時中の中断を経て戦後、完結に向かって編集が急がれるなか、小林は、1954年、新たに『キリスト教用語辞典』(東京堂)を出版。義務教育が中学まで引き上げられ、辞書出版の隆盛期に向かう時期にあたり、英和・独和・仏和各辞典におけるカトリック用語の訳語是正に影響を与えたという。そして1960年には『キリスト教百科事典』(エンデルレ書店)を刊行、『カトリック大辞典』編纂の経験と知識が凝縮された優れた中百科事典で、現在も第2バチカン公会議前のカトリック教会とキリスト教文化全般を知るために役立つほどである。

 

カトリック・メディア活動の大先達

小林珍雄の生涯で興味深い一コマがある。1962年、60歳のときに「キリスト教的正義と愛の政治を目指して、参議院選挙全国区に自由民主党公認として立候補、落選」。宗教と政治、教会と国家の問題を終生思索し続けていた彼は、その実践を真剣に考えていたことがわかる。ある追悼文は「キリストの戦士」とするが、その業績全体は、多数の翻訳・新聞雑誌での評論も含めてまさしく「文筆の使徒」であり「カトリック・マスコミの先達、指導者」(同じく追悼文が掲げる評言)であった。

『新カトリック大事典』全4巻+別巻(研究社、1996~2010年)

1996年から2010年にかけて研究社から出版された上智学院新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』の編集資料に「小林珍雄文庫」の印が押された多数の欧米のキリスト教系辞典類がある。『カトリック大辞典』から『新カトリック大事典』へ編集資料として受け継がれたものである。岩下壮一、ヨハネス・クラウス、小林珍雄の時代からの命脈はこうして『新カトリック大事典』にも流れている。

小林珍雄のカトリック思想、キリスト教文化の精神が的確な言葉を通して、日本の言語世界に根付くように尽力したその仕事は、日本人の感性・文化・伝統の中でのキリスト教受容、カトリシズム理解の向上を目指してのものであった。本・雑誌・新聞といった活字メディアから一歩飛翔し、インターネット&SNSの世界で、カトリック精神とキリスト教文化を語っていこうとしている、ウェブマガジン「AMOR―陽だまりの丘」も、まさしく小林珍雄路線を踏襲しているといえる。

(AMOR編集長/上智学院新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』編集実務委員)

 


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