ミサはなかなか面白い 56 「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」


「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」

答五郎 ミサについて式次第の順に見てきて、ようやく一つの頂点にさしかかっているかもしれない。

 

 

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問次郎 はい。第2奉献文を見始めて、きょうはいよいよイエスのことばのところになりました。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」ですね。歌のときは「からだ」で結びますね。余韻の中で「である」と語っていると聞いています。

 

答五郎 たしかにそれは、日本の典礼文ならではの工夫だね。ともかく、この言葉、ミサでは、どんなふうに聞こえているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それは、やはり「主イエスは、……仰せになりました」とあるので、イエスの言葉なのだな、とかなり、緊張します。

 

 

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問次郎 「仰せになりました」とあるので、あの最後の晩餐のときの言葉を今、唱えて思い出させているのだと、聞いています。聖書にも出ているあの場面の言葉を思い起こさせられます。

 

 

答五郎 では、聖書の文言を見て確かめよう。美沙さん、ピックアップして読んでくれるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26・26)、「取りなさい。これはわたしの体である」(マルコ14・22)、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)ですね。

 

答五郎 もう一つ、パウロの手紙にもあるよ。ここだ。

 

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(1コリント11・24)ですね。

 

 

答五郎 これらを奉献文の文言と比べるとどういうことがわかるかな。

 

 

 

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問次郎 4つに共通なのは「これは、わたしの体である」で、そこにルカの「あなたがたのために与えられる」に近い「あなたがたのために渡される」が加わっている感じですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それに「取って、食べなさい」はマタイの文言と同じです。

 

 

答五郎 こう見ると、マタイとルカを軸にまとめられた言葉だということがわかるね。今見ているカトリック教会の奉献文は、ローマ典礼の伝統的な文言を基本にしているのだけれど、それ自体、聖書にある文言をもとにまとめられているようだね。

 

 

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問次郎  先ほど、答えたことですが、奉献文のその文言を聞きながら、最後の晩餐のときの言葉を読み上げているのだという受けとめ方では何か不十分だったでしょうか。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「秘跡の制定句」と紹介されているのを見たことがあります。それは、パンについての言葉と、杯についての言葉のことですね。

 

 

答五郎 たしかにその面がある。「わたしの記念としてこのように行いなさい」ということばが1コリントやルカにあって、それが奉献文のイエスの文言にも受け継がれている。だから、ここから聖体の秘跡が始まったということだね。総則が「制定の叙述と聖別」と書いている前半にあたる。制定の叙述だから、前回見たような「主イエスはすすんで受難に向かう前に……」といった過去の出来事を想起させる「語り」を指して言っていると思う。パンと杯に関する言葉はただ過去に告げられた言葉の読み上げではないというニュアンスでね。

 

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問次郎 そこが、「聖別」と後半に書いてある意味なのですね。ずっと話題になっていることですが。

 

 

答五郎 そう。「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」という言葉の役割がここで重要になるのだよ。あの最後の晩餐のときのイエスの言葉を思い出させるだけではないのだよ。

 

 

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問次郎 聖体の秘跡が制定された原点に立ち返るということとでしょうか。

 

 

答五郎 それも少し近いように思うが、それだと、こちらから、過去の出来事に立ち戻っている感じだね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスが「今」語っているということでしょうか。

 

 

答五郎 実は、そうなのだよ。この晩餐のときのイエスの言葉は、ただ聖体の秘跡を定めたというだけでなく、今、ここで、与えられる、そしてミサに参加する人が受けることになる食べ物、飲み物がイエスの体・イエスの血なのだということを語る言葉なんだ。そして、そのようなものにする言葉だという、その役割、働きのことを「聖別」と言っているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 ただ単に、聖体の秘跡の由来を教えるためにイエスがいわれた言葉を読み上げて思い出しているだけではないということですね。

 

 

答五郎 イエスのことを過去に生きた人としてミサで追憶しているというわけではないのだからね。何度も、「現存」ということを考えてきただろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主は皆さんとともに」ですね。

 

 

答五郎 ミサのどの部分、どの次第の中でも、キリストが今、その共同体にいつもいてこそ、行うことができているミサだということを、ここでこそいちばん考えなくてはならないのさ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 今の話の中で、いわゆる「聖変化」ということがもう言われていたのでしょうか。パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるということですね。

 

 

答五郎 それはそうなのだが、その言い方の中で何か足りないものがあるのではないかな。それがまさに「聖変化」という言い方、理解のしかたの足りないところでもあるのだけど……。イエスの晩餐での言葉をよく聞きながら考えてごらん。

252164女の子_うきわ

問次郎・美沙  ああ……、はい。

 

 

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答五郎 ただ単に、パン=わたしの体、ぶどう酒=わたしの血ということだけを言っているだろうか? そこには大事なことが一緒に含まれているのではないかな。……引き続き次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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