クリスマスと風土


齋藤克弘(典礼音楽研究家)

わたくしの担当しているコーナーは一応「音楽の神髄」というタイトルなのですが、今回は少し音楽を離れてクリスマスの文化と風土について語ってみたいと思います。

クリスマス前、日本では大体12月に入るとあちこちで、クリスマスソングがBGMとして流れることは前回も書きました。その他にも、クリスマスツリーが飾られ、イルミネーション(昔は電飾と言いました)が街を明るく灯します。教会の中では、主イエス・キリストが生まれた場面を模したプレセピオ(馬小屋)が飾られ、常緑樹と紅いヒイラギなどの実が装飾されたリース=クランツが置かれ、その輪の中には4本のろうそくが立てられ、日曜日ごとに1本ずつ灯されるろうそくが増えていきます。このようなクリスマス独自の装飾は、なんの疑問もなく行われていますが、ちょっと視点を変えてみると、実は、なんでこういうものが飾られるんだろうと思うことがあるのです。皆さんはそういう疑問を持ったことはないでしょうか。

前回も少し触れましたが、降誕祭にその誕生を祝われるイエス・キリストは、ユダヤのベトレヘムで生まれました。現在のイスラエルですね。イエス・キリストの誕生を記しているのは、イエスの生涯を書き記した4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書の2つで、ほかの2つ、マルコとヨハネの福音書にはその記述はありません。しかも、マタイとルカでは、書かれていることが全く異なっています。これは、キリスト降誕の出来事が作り話ということではありません。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『東方三博士の礼拝』(トレド美術館、1655年頃)

「グレゴリオ聖歌」でもお話ししましたが、この時代には現代のように、スマートフォンやビデオカメラがなかったのはもちろんのこと、その場でメモを取れるようなペンや紙すらありませんでした。福音書が書かれたのはキリストが昇天してからさらに数十年後のこと。それぞれの福音書を書いたマタイとルカが話を伝えようとした人々も異なっていて、いわば、自分が伝えたい興味も違っていたことから、自分が伝える必要がないことは書かなかったわけです。現代のように事実だけを伝えるノンフィクションというジャンルで書かれているのではないのです。

さて、わたくしたちがキリスト降誕の場面としてよく知っているのは、マリアとヨゼフは宿屋がいっぱいで泊まるところがなかったので、馬小屋で休んでいるときにマリアが産気づいて、イエスが生まれた、そしてそこに、天使からその誕生を伝えられた羊飼いたちと東方から3人の博士たちがキリストを拝みに来た、というものですが、ここで当時の時代背景や風土を考えてみると、いくつか不思議なことが思い当たります。

まず 「馬小屋」ですが、当時の地中海の周辺世界では、馬は農耕には使われず、むしろ戦車をけん引する動物として使われていました。ですから、宿屋に馬小屋が併設されていることは考えられません。農耕に使われた動物は牛、ほかにもロバが荷物運びに使われていましたので、これらの動物を泊めるところでマリアはイエスを産んだということになります。

次に、現在、クリスマスは寒さも募る12月に祝われていますが、ルカ福音書では「野宿していた羊飼いたちに」天使がイエスの誕生を伝えたと記されています。しかし、現在のイスラエルでも夜はかなり冷え込み、12月のというこの時期に野宿するのは生命の危険を顧みない無謀な行為と言っても過言ではありません。事実、2~3世紀にかけてアレキサンドリアで活躍した神学者のクレメンスはキリスト降誕を5月20日と推測しています。

キリスト降誕の日が12月25日に祝われるようになったのは、前回も書いたように325年のニカイア公会議頃の後、ローマにおいてですが、 その背景にあるのは、2世紀の殉教者でもある神学者のユスティノスが、ローマ人の太陽崇拝に対して「キリストこそ正義の太陽である」と著作で述べたことから、ローマ人が多く崇拝していたミトラス教の「不敗の太陽神」を祝う冬至祭がキリスト教化されたものとされています。

もう一つ、東方からキリストを拝みに来た博士たちは「3人」と言われていますが、マタイの福音書には博士の人数は書かれてはいません。ギリシャ語では「マゴイ」 と複数で書かれているので、一人ではないことは間違いありませんが、人数については全く触れられていません。では、なぜ3人になったのかと考えると、博士たちが持ってきた贈り物が「黄金」「乳香」「没薬」の三種類だったことから一人が一種類ずつ持ってきたと解釈されて、3人と考えられるようになったようです。ちなみに、のちに、この博士たちには、名前まで付けられています(もちろん、聖書には名前すら書かれていません)。

さて、クリスマスの飾りというと最初にも挙げたクリスマスツリーやクリスマスリース(クランツ)あるいはイルミネーションですね。

クリスマスツリーの起源には諸説ありますが、ツリーに使われる「もみの木」や「ドイツトウヒ」といった木はどれもキリストが生活したイスラエルには自生していません。リース(クランツ)の材料のヒイラギも然りです。イルミネーションに至っては電気がふんだんに使えるようになったこの数十年のものですね。これらもキリストが生きていた時代のイスラエルとは何の関連もないことがわかりますね。

もう一つ、クリスマスというと欠かせないのがサンタクロース。サンタクロースは北ヨーロッパの北極圏あるいはそこに近いところに住んでいて、赤と白の衣装をまとい、トナカイの牽く(ひく)そりに乗って子供たちにプレゼントを届けます。この、サンタクロースのモデル、実在する教会の司教さんです。現在のトルコの小さな村、ミュラの司教のニコラウス。言い伝えでは、隣に住んでいた貧しい家族の娘たちが身売りされそうになったので、とある夜、その家に金貨をそっと投げ入れて、娘たちが安心して暮らせるようにしたことから、子供たちにプレゼントをもってきてくれる好々爺(こうこうや)とされたようです。ちなみに、投げ入れられた金貨は暖炉に下げられていた靴下に入ったことから、靴下を準備する習慣が生まれたようです。

でも、トルコと北極圏ではかなり遠く離れていますよね。中世にヨーロッパで聖人の崇敬が盛んになると、聖ニコラウスの遺骨がイタリアのバーリという町に移されたとされました。ニコラウスのお祝いは12月6日。ヨーロッパではこの日にはミトラ(司教冠)を被り、バクルス(司教杖)を持った聖ニコラウスが地元に住む悪魔を従えて村を練り歩くお祭りが開催されます。聖ニコラウスとサンタクロース、発音があまりに違っているように思えますが、聖ニコラウスのオランダ語読みが「シンタクラウス」。それがアメリカ合衆国の英語読みとしてなまったのが「サンタクロース」なのです。もともと司教だった聖ニコラウスがサンタクロースになってから、北極圏に近いところに住み、赤と白の衣装をまとって、トナカイの牽くそりに乗るようになったのは、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ムーア(生没年 1799~1863)の一連の著書が原型になっています。

さて、このように見てくると、わたくしたちになじみのあるクリスマスの文化というのは、本来の主人公である、イエス・キリストやイエスが暮らした時代、あるいは暮らした土地とはほとんど関係ないものが多いことがわかります。

ヨーロッパの北部、特にアルプスより北の地方はゲルマン古来の宗教の習慣が長く行われていたようです。キリスト教を広めた人たちはそれらをただ否定するのではなく、それらの文化をキリスト教に取り入れて人々にキリストの教えのすばらしさを伝えようとしたのです(神学用語ではインカルチュレーション=Inculturationと言います)。

現代の日本では、これらは多くが商業目的に使われているのは残念な気がしますが、だからといって、また、これらの文化がもともとイエスとは関連がないからと、否定するのではなく、これらを用いてキリストの教えのすばらしさ、神の国の豊かさを伝える、端緒(初めの一歩)にできればいいと思いませんか。

 


クリスマスと風土” への1件のフィードバック

  1. 齋藤克弘様
    今日は聖家族、明日は神の母聖マリアの祝日ですね。
    初めまして。私は福岡教区の小教区でオルガンを担当している20代男性信徒です(つたないオルガ二ストですが)。齋藤様のブログ「聖歌は生歌」をよく拝見しております。齋藤様の語られる典礼のお話は、神学的側面と音楽的側面の両アプローチからなっているので、とても奥が深いなと感じます。今後も楽しみにしております。

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