グレゴリオ聖歌 3


齋藤克弘

西ローマ帝国では中央集権制が衰退して通信網が弱体化すると教会も各地で固有の典礼や聖歌が興隆してきました。また、早くから宣教が進んでいたケルト人の居住地域(現在のイギリスやイングランド)でも特有のキリスト教文化や教会制度が整っていきました。一方、アルプス以北のフランク王国は異端とされたアリウス派の信仰を受け入れていましたが、5世紀の末にはローマの信仰(アタナシオス派)に改宗しています。このフランク王国がローマにも大きな影響を与えることになります。

フランク王国もメロヴィング朝の時代はローマ(使徒座)との結びつきはそれほど強くはありませんでした。しかし、メロヴィング朝においてカロリング家が台頭してくると様相は一変します。ピピン3世はかねてから庇護を求めていたローマ教皇との関係を深め、他の貴族の影響を排除するために、教皇ザカリアスに協力を依頼して、ボニファティウスから塗油を受けます。それまで、つまりメロヴィング朝時代のフランク王はあくまでも地方の王朝であったわけですが、ピピン3世は塗油によって、独立した王権だけではなく、教会の権威によって認められた神聖な王権を手に入れることができたのです。それは、すでに失われていた西ローマ帝国の王権に匹敵するものであり、東ローマ帝国からの独立を示唆するものになりました。こうして、ローマ教皇の権威を利用したピピン3世は事実上のフランク王国の支配者となり、最終的には教皇の黙認のもと無血クーデターによってフランク王国の王権を手に入れることになります。

ピピン3世

この間、ローマではランゴバルト王国からの脅威を取り除くために東ローマ帝国に援助を要請していましたら、東ローマ帝国からは具体的な援助がなかったことから、教皇はカロリング朝フランク王国に援助を要請し、ピピンはランゴバルト王国から占領地を奪還していくつかの都市をローマ教皇に寄進します。これが教皇領の始まりと言われています。また、カロリング朝フランク王国の王権は、世俗における神と人との仲介者、キリストの代理者としての職務としての王権と考えられ、ピピン3世は王国内で司教会議を開催したり、教会に土地を寄付したりという形で、教会の保護者としての職務を行うようになりました。

ピピン3世が死去するとその子の一人カール1世(カール大帝)が王国を支配します。カールは周辺諸部族との戦闘で多くの年月を費やしますが、ローマへも影響力を強めていきます。最終的には紀元800年の降誕祭にカールはローマを訪れ、親カールの教皇レオ3世から戴冠式を受けます。この戴冠はカールが単にフランク王国の王として戴冠しただけではなく、それまで不在となっていた西ローマ帝国の皇帝として戴冠したことを意味しています。東ローマ帝国はこのことを認めませんでしたが、実質上、フランク国王は西ローマ帝国の領土と皇帝権を復活させ、カロリング朝ルネッサンスで活躍したアルクィヌス(アルクィン)をして、彼の支配地を「キリスト教帝国」と言わしめるものになりました。

実は、グレゴリオ聖歌はこのような政治的背景の中で生まれ出てきたものなのです。次回は現代「グレゴリオ聖歌」と呼ばれているものがどのような過程を経て、作られていったのかを見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

fourteen − one =