鈴木 隆(日本CLC(クリスチャン・ライフ・コミュニティ)代表世話人)
キリスト教の祈りは、十字架のしるしで始まります。右手の指(通常は中指)で額に触れ、その手を胸に向けて動かしながら「父と子と」と唱えます。胸の真ん中(肋骨の谷間)に触れた後、今度は右手の指で左肩を触れ、胸を横切って右肩に触れながら「聖霊」と唱え、その後に合掌して「の、み名によって、アーメン」と唱えます。キリスト教の神は、この祈りで象徴されるように、「父」と「子」と「聖霊」の3つの品格(ペルソナ)が、特別なかたちで、つまり互いに深く愛し合う関係を保ちながら、「三位一体」の唯一の神として存在していると捉えられています。「父」とは、天におられる神を指します。「子」とは、人類を救うために神がこの世に遣わされたイエス・キリストのことです。「聖霊」については、神学的にさまざまな定義がありますが、それを学んだ私が思うに「神の思い、つまり、目には見えない神の心」と言うことができるでしょう。
約2000年前のイスラエルでの出来事ですが、「イエス」という人が、形骸化していた当時の信仰のあり方を憂いて、愛と正義と平和を生きるために神に立ち返ることを説き、貧しくされ、虐げられている人々ために働きました。しかし当時の人々は、人民裁判のような方法で死刑を宣告し、十字架に付けて殺してしまったのです。このイエスは墓に葬られるのですが、墓から遺体が消えてしまったばかりか、特別な姿となって生前親しかった人々の間にあらわれるという出来事が続きました。この、到底普通の人間とは思うことができない「イエス」という人物は、天の父が人類を救うためにこの地上に遣わした「神の子」であると確信し、死んだ後に特別な姿となったことを「復活」と呼び、キリスト教の教えの枠組みができあがったのです。
神の存在を証明することは、誰にもできません。死後の世界を垣間見た人は誰もいません。証明できないからこそ、私たちキリスト者は「信じる」とい言葉を用いて、「神が存在し、人は死後にイエスと同じように復活して永遠のいのちを生きる」という考えを基とした生活に賭けて、日々暮らしているのです。
このようなキリスト教の信仰を生きる上で、聖霊の働きに敏感になることがとても大切になります。キリスト教は悪の存在を前提とした宗教です。私たち人間は、「神の思い」つまり、聖霊に促されて善を行うようになりますが、同時に悪霊に促されて罪を行うようにもなります。聖霊の促しなのか、悪霊の促しなのかは、なかなか見分けができません。ですから、日頃から聖霊の促しにしたがったときの「後味」をしっかりと心に刻み、それを積み上げておいて、また一方で悪霊の促しにしたがったときの「後味」も心に刻んでおいて、これから行おうとしている大切な選びが、どちらの促しなのかを見定める、教会の言葉では「識別する」ことが求められるのです。
聖霊の働きに敏感になるためには、柔らかい心をもつことが必要となります。神の心は、私たちの心に触れることでその思いを伝えてくれます。世間体にとらわれたり、名誉や地位を得たいという気持をもったり、より美しくより健康になりたいと願ったり、つまり、人間の欲望を満たすことだけが心の大部分を占めると、心はカチカチに固くなります。偏りのない心をもって、神が聖霊をとおして何を伝えようとしているのかを感じ取ることができる、柔らかい心で日々を過ごすことができますように。