風に吹かれて


竹内 修一(イエズス会司祭)

薫風――それは、私たちに、いつも初夏の香りとその輝きを伝えてくれる。青葉若葉の香り、川面に照り映る日の光、さらには、生けるすべてのものの息遣いまでもが、記憶の彼方から蘇ってくる。聖霊もまた、同様に体験されるのではないか、とそう思う。おそらく、私たちは、御父についてまたイエスについて、何らかのイメージを浮かべることはできるかもしれない。しかし、聖霊については、なかなかその顔を思い浮かべることができない。しかし、体験することはできる。それは、特に、祈りにおける体験である。つまり、聖霊は、祈りにおいて私たちを、イエスを通して父なる神へと促してくれるのである。

 

いのちの息

自分は、生きている。というよりも、生かされているといった方が相応しいであろう。この事実に気づかされるとき、次の言葉は静かに自分の奥深くへと降りてくる。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。生きるとは、こういうことなのか。そこには何の力みも焦りも衒(てら)いもない。このいのちの息が与えられている限り、人は生きる。それ以上でもそれ以下でもない。それは、素朴な日常生活において体験される事実である。

 

すべてが一つとなるように

祈りにおいて、私たちは、自分自身と一つになる。それによって、また、神とも一つになる。神のいのちに与ると言ってもいい。それゆえ、イエスは、私たちのために執り成しの祈りをされた。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)。それによって、私たちは、神のいのちの中へと招かれる。すべてのものは、その多様性を失うことなく、一つとなる。それはひとえに聖霊によるものであり、その事実を私たちは、愛のはたらきと呼ぶ。

 

愛ははたらき

この世を去る時、イエスは、一つの約束をされた。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)。この「弁護者」(パラクレートス)は、「真理の霊」(14:17)とも言われ、それによって私たちは、今もなお、イエスとともに生きている。この「真理」(アレーテイア)は、決して無機質なものではなく、神の「まこと」(エメト)であり、真心である。それによって、私たちは、真のいのちを味わい自らのいのちを生きて行く。

 

真理による自由

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)――と、イエスは語った。さらに、彼は、自らを真理であるとも語られた。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(14:6)。イエスは決して、自己実現を目指したのでも、また自分の思いを主張したのでもない。彼が旨としたのは、ただ一つ。それは、彼を遣わされた方の思いを実現することである。そこに、彼の自由はある。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)。真理における自由の遂行。それを可能にするもの、それが聖霊にほかならない。「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)。「聖霊」(プネウマ)は、まさに「風」(プネウマ)のように、私たちのいのちの中を吹き抜ける。

 

赦しから平和へ

復活の後、イエスは、弟子たちに現れこう語られた――「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19、21、26)。この「平和」(シャローム/エイレーネー)とは、本来、「神がともにいること」にほかならない。自分の心の中に、人と人との間に、そしてこの宇宙そのものに神がともにいる――それが、真の平和の謂いである。この平和はまた、聖霊によって与えられる。しかもそれは、神からの赦しによってこそ可能となる。それゆえ、イエスは、弟子たちに「息」(プネウマ)を吹きかけてこう語る――「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)。真の平和は、ここから生まれる。

 

風薫るさとや千尋の竹の奥   高桑 闌更

 

※高桑 闌更(たかくわ・らんこう):1726-1798年。江戸時代中期~後期の俳人。

 


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