聖堂の「聖」とは?
問次郎……教会堂に入ってみてどうだった、とお聞きになりますが、その前にちょっと質問です。答五郎さんは、教会堂と言いましたけど、実際に行った先でそのような言葉を見かけませんでしたよ。
答五郎……そうかな?
問次郎……聖堂(せいどう)という言葉、たとえば主聖堂とか中聖堂とかいう言葉が案内板に出ていたのですが……。
答五郎……(苦笑)さすが、細かいところに気がつく問次郎さんだ。ミサのことを具体的に考えるために、ミサのための建物という意味で、あえて教会とはいわず教会堂といったんだよ。たしかに一般にカトリック教会では聖堂というな。
美沙……聖堂のことを「おみどう」といっている人もいました。
答五郎……たしかに。「聖」の字を書いて「み」と読むのも日本の教会の慣習の一つのようだ。イエスの聖心(せいしん)と書いて「みこころ」と読むのなんかがその代表格かな。
問次郎……そうしますと、聖堂は「みどう」ですね。
答五郎……そこにさらに「御(お)」をつけて「おみどう」というふうになっているんだと思う。「みどう」だと落ち着かないからというのもあろうが。
美沙……日本語の語感や信者の心理の産物として理解できないことはありません。
答五郎 そう言ってもらえると心強いが、ただ慣習に走りすぎて気持ちが伴わなくなると言葉も形骸化する。そこは注意しないとな。これは自戒だが。
問次郎……そういえば、教会の用語には「聖」という語がつくものが多いですね。
答五郎……多いかな。たとえば?
問次郎……まず聖歌、聖書。教わってばかりですが、聖櫃(せいひつ)、聖水というのもあります。
答五郎……日本語訳の結果、どれもきれいに「聖」がつく二次熟語になっているな。定着しているだけ、意味があるんだと思うが。
美沙……「せい」と聞いても意味がわからず、やはり「聖」という漢字に依存していると思います。日本語ともいえないような気がします。
答五郎……なるほど、そこで「みこころ」といった言い方も出るのかもしれない。話は先走るが、実はミサの式文の中で「とうといもの」とか「まことにとうとく」といった言葉が出てくるのに気づかなかったかな。
問次郎……(美沙とも顔を見合わせながら)たしかにありますね。あの「とうといとは」?
答五郎……実は、あれも「聖なる」と同じなのだよ。古い訳し方なのだが、日本語らしい言葉にしようとしたときに「とうとい」が使われたらしい。「主の祈り」でも、今は「み名が聖とされますように」と唱えるところが、前は「み名がとうとまれんことを」と唱えていた。
問次郎……その場合、「尊い」「尊く」「尊ぶ」という意味で理解できないのですか?
答五郎……そうだろう。それが当然だよ。ただ、聖書や典礼の原文から見れば、「聖なる」という意味なので、「とうとい」と平仮名にして使っているんだ。「尊い」だと人間のレベルでの尊敬の意味になると思ったのかもしれない。
問次郎……文字で区別しても、聞いている分にはわからないですよね。
美沙……翻訳には苦労が伴います。そのあたりの工夫はむしろ苦心の結果だと私は評価したいです。
答五郎……(苦笑)これは冷静に見てくれているね。先輩方も泣いて喜ぶだろう。
さて、話を進めるために、てっとり早く説明すると、「聖」という文字は、一面では神の特性を言う。神が何よりも聖なる方なのだ。もう一方では、その聖なる神に向けて行う礼拝に関するものも「聖」を付けて表す。あくまで日本語レベルでの説明だが。
問次郎……そうすると、聖堂は、神の礼拝のための建物という意味で通じます。聖歌も神を賛美し神に向かって祈る歌という意味なんですね。
美沙……私は、もう一つの意味がいつも同時にあると思います。神の聖なることが表され、伝えられる建物とか歌という意味です。特に、聖書は何よりも聖なる神のことばの書であるとともに、同時に人間の側からの祈りや信仰告白も含んでいる礼拝のための書ということにならないでしょうか。
答五郎……う-ん。(感極まって)これは、わたしらよりも深く考えてくれているみたいだよ。
(つづく)
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)