「ブランカとギター弾き」(日本カトリック映画賞授賞作)

2018年度の日本カトリック映画賞は、この作品『ブランカとギター弾き』に授与されることになった。

1年前の封切の時に、私はすでにこの作品を銀座の映画館で観ていて、その時は「おっ、なかいいじゃん」と思っていたのではあるが、いざ日本カトリック映画賞受賞となると、ちょっと意外な気がしたのである。断っておくが、それはけっして作品の出来不出来という観点でではなく、受賞対象としての条件面においてである。

まず、この映画のストーリーの舞台なのだが、日本ではなくフィリピンなのである。登場人物も全員フィリピン人であり、それを演じる俳優も当然のことながらみんなフィリピン人である。日本人は一人も出てこない。さらに加えてこの映画、制作国さえ日本ではない。なんとイタリアなのである。ジャパニーズなのは、長谷井宏紀監督(と脚本の大西健之氏)だけなのである。

また、カトリック国フィリピンが舞台であるにもかかわらず、シスターの姿がちょろっと映っているだけで、教会も神父も登場しない。スクリーン上に見出せるカトリック的なアイテムといえば、ブランカが首からぶら下げたロザリオくらいのものである。

こんなに不利な条件が揃っていながら、よくぞ難関を潜り抜け、「日本」「カトリック」映画賞を受賞することが出来たものだと、感心してしまう。

監督の長谷井氏だが、セルビアの巨匠エミール・クストリッツァ監督の主催する映画祭で、短編がグランプリを受賞したのをきっかけに映画を作るようになったそうで、本作品も、日本人として初めてヴェネツィア・ビエンナーレ&ヴェネツィア国際映画祭の全額出資を受けて制作された映画であり、ヴェネツィア、フリブール、カルカッタ、サンタンデール、シネジュヌ、テルアビブ、オリンピア、リムースキ、シネキッド、キノオデッサ、プロヴィデンス、キキーフの各国際映画祭で高い評価を得ている、きわめてインターナショナルな新人日本人監督なのである。

『ブランカとギター弾き』は、フィリピンの大都会マニラのスラム街を舞台に、段ボールハウスに暮らす孤児の少女ブランカと、盲目のギター弾きピーターとの関わりを描いた、ハートウォーミングなロードムービーである。孤独を抱えながらそれを表に出さない勝気な主人公ブランカは、スリを生業にしていたが、やがて母親を金で買うことを思いつき、偶然出会った路上のギター弾きピーターとともに旅に出る。見知らぬ街で、ピーターが勧めるままに歌をうたっていたブランカは、たまたま通りかかったレストランの支配人に認められ、仕事を得てお金を稼げるようになる。しかし幸運もつかの間、店の売上金を盗んだという濡れ衣を着せられ、追い出されてしまう。心ならずも少年窃盗団(かわいいものだが)に引き入れられ、泥棒稼業に戻ってしまったブランカに、さらに思いもよらぬ危険が迫ってくる。危うしブランカ! 急げピーター‼

…とまぁ、ストーリー展開には既視感がないわけではない。しかし、予定調和も本作では良い方に働いていると思われる。仮にそれを差し引いたとしても、マニラのスラムでスカウトされたピーターや子どもたち素人役者のキャラクターが抜群に素晴らしく、また愛おしく、生きることへの肯定感や人間の信頼性がスクリーンいっぱいに醸し出されていて、『日本昔ばなし』じゃないけれど、「人間ってい~な~」と再認識させる説得力に満ち溢れており、少なくともこの点においては、『ブランカとギター弾き』はきわめてキリスト教的な映画だと言えよう。

日本カトリック映画賞受賞もむべなるかな、なのである。

(伊藤淳、カトリック清瀬教会主任司祭)

日本カトリック映画賞の受賞式は2018年5月12日に東京・中野ZERO大ホールにて行われます。

チケットは聖イグナチオ教会案内所、スペースセントポール、サンパウロ書店、ドン・ボスコ社、天使の森で販売しています。
もしくは、SIGNIS JAPANのホームページからも申込みができます。
メールでのお申し込みは、info@signis-japan.orgまでお願いいたします。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 5

戦争の消えない傷

伊藤 直接クメール・ルージュはご存じないにしても、その直後ぐらいからカンボジアの激動みたいなものは見ていらしたんですね。

後藤 そうです。一人ひとりはほとんどしゃべらないんですけれども、例えば、私の子どもだった子は、ベトナム兵をナイフで殺しているとか、同じ村の中で、あの人がポル・ポトについた、自分の親はあの人たちに殺されたというのがあります。でも、今はみんな黙ってしまって、心の中に持っていてもお互いに話しません。やはりトラウマとして残っています。あれはどうやって解決していくんでしょうか。この方たちもいつか亡くなっていくでしょうから、そこまでいかないと消えないのかなという不安はあります。彼ら一人ひとりの中にある心の傷というのは、私が戦災にあって、すごい傷を受けて、それは今でも残っています、死ぬまで消えないと思っています、そのトラウマと同じようなものを彼らもみな持ち合わせています。ただ、平和に暮らすためにそれを表に出さないというだけです。

伊藤 ラーさんと神父様とのやりとりで、誰が考えてもラーさんの両親は殺されていると思うのを……。

後藤 それは失礼だと、生きているかも知れないのにというのは、彼の実感なんですね。

伊藤 人を3人殺したという話もありましたね。

後藤 鬱になってしまって、自殺寸前までいったんです。それで放っておいたら自殺するというので、精神病院に入れたんです。精神病院なら監視がついています。自殺させないために半年まではいきませんでしたが、入れました。

伊藤 戦争というのは、殺す殺されるという単純なものではない、深いものがありますね。

後藤 これは死ぬまで持ち続けなければならないんでしょうね。

伊藤 それを学校づくりということで、癒やしとおっしゃっていましたけれども……。

後藤 それしか方法がありませんでした。いくら言葉で慰めても、効き目ないでしょうね。

伊藤 ある意味学校をつくるということで、確実に癒やしはできるということでしょうか。

後藤 そんなことで、少しお手伝いできたかなと思っています。それは同時に私の癒やしなんですね。

伊藤 映画の最後に、自分の幸せを求めていると、他人を不幸にしてしまう。でも他人の幸せを求めていると、自分が幸せになっているとおっしゃっていますね。

後藤 それは実感ですね。

伊藤 司祭職の前にキリスト者、あるいはキリスト者ではなくても、人間というのは、そういう生き方をすることで、全員が幸せになれるということなんでしょうか。

後藤 そうですね。ですから、私の中では理屈はないです。戦争絶対反対なんです。戦争によって物事は何一つ解決しないどころか、戦争によって傷を負った人は、その傷を死ぬまで持ち続けますし、それで死んでいった人たちは無念だったと思います。だから戦争による解決というのは、私は信じません。

伊藤 理屈なしに絶対反対。

後藤 反対。何が何だって反対です。

伊藤 何が何でもですね。イエスさまもそういう生き方をなさっていますね。

後藤 よく、本当のキリスト教かと言われるんです。どうも阿弥陀の匂いがすると言われます。お前のキリスト教は阿弥陀のキリスト教ではないかと言われるんです。僕は小学校6年生まで、毎晩お経の練習をさせられて、阿弥陀様の前でお経を上げて、私の中には骨の髄までしみ込んでいて、そのしみ込んだ阿弥陀様の信仰を突き抜けてキリスト教に出会った。だから僕は仏教を否定してキリスト教になったのではなく、それを受け入れて、その向こうでキリスト教に出会ったと言っています。

父に対しても同じ。最後には死ななければならない。公会議の前でしたから、あの頃は洗礼を受けなければ救われないと私もそう教えていました。父が死んだ時は、公会議の前だったんです。その時はもう神父をやっていました。そうなると、父になんとか洗礼を授けなければならないということで、いよいよ危なくなってきたという時に、「坊主何年やった」「60年やった」「何をやっているんだ。新聞配達や牛乳配達をやっているのと同じだ。お経配達して、お布施もらって生活をしてきた」。

父は、法然、親鸞、蓮如のお三方が大好きでした。私も今好きなんですよ。そこで、「法然、親鸞、蓮如は極楽にはいらっしゃらないよ」。父はびっくりしてしまって、「どこにいるんだ」と言います。「当たり前だ。あんな立派な方は極楽を突き抜けて天国だ。お父さん、あなたは無理です。あなたは極楽止まりです」と言いました。すると、「俺はどうしたらいいんだ」と。ひどいですね。それは偽りの計画ですが、「あなた、そのままじゃダメです。洗礼を受けなさい」と言いました。だまして洗礼を受けさせたようなものですが、神様は許してくださるでしょうね。そういうわけで親不孝は一つ償ったつもりです。

母の方は全身焼けただれて、川に横たわっていたわけですから、この母はどうなるのかいつも心配でした。この母を天国に行ったときには探さなければならないと、キリスト教的なことを言っています。やはりすごく気になります。

伊藤 意図して仏教、真宗とキリスト教を融合したということではないんですね。

後藤 細胞にしみ込んでいて、何にも矛盾がありません。坊主が妻帯するとか、大いに結構ではないですか。その上で私がいるんですから。

伊藤 本日はいろいろとお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 4

善意の人たちに囲まれて

伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。

後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。

伊藤 では、養父として……。

後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。

あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。

「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。

そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。

今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。

伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。

後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。

伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。

後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。

それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。

伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。

後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。

伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。

後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。

伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。

後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。

伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。

後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。

 

 


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 3

父との関係

伊藤 今のお話ですと、お父様ですが、帰って来いと言われるまでは勘当だったわけですか。映画に、お母様のことを思うあまりにというエピソードがありましたけれど……。

後藤 父が再婚すると言った時に、親父をぶん殴っちゃったんです。親を殴るもんじゃないですね。今でも僕の方がトラウマを受けてしまっています。親を殴って平気で神父業をやっているというのは、非常に恥ずかしいですね。

伊藤 映画の中で、お父様は叙階式に来て下さっていますよね。

後藤 それも行かないと言っていたんですが、その日の朝、御聖堂に入るまで父が来ているのを知りませんでした。前の日に急に気が変わって行ってやろうということになったらしいんですね。

父はその時初めてカトリックの式に与ったんです。司式は京都の司教様だったんですが、「なんだ、あのスルメの帽子。ぜんまいの杖を持って。しかもあの指輪はヤクザの指輪ではないか」と言うんです。「あれは誰なんだ」と言うんです。「あれはカトリック教会の中でもえらい司教様というんだ」と説明しましたが、その程度でした。

関係は悪い関係ではないけれども、気持ちのどこかに父を疑っていました。つまり、同じ防空壕に入っていたのに、生きているのは父だけです。後は全員死にました。私と兄は家にいませんでした。ですから全責任は親父にあるというわけで、あんた自分だけ一番先に逃げたんだろうと、責めたんです。やはり本当のことを言っていないなという疑いの気持ちはずっと続きました。だからどうしてもずれるといいますか、確執がありました。

伊藤 その確執があったから、浄土真宗のお寺の息子さんなのにカトリック司祭になった。

後藤 そうです。それは親父に社会的ダメージを与えてやろうという気持ちもあったんです。つまり、坊主の子が耶蘇になるというのは、あんな小さな町では、すぐに評判になります。実際に父は私が洗礼を受けたときに、非常に怒ったわけです。結局「お前のおかげで、自分の立場がない」というようなことでした。その時僕は殉教者気取りですから。

ちょうどその次の年にフランシスコ・ザビエルの聖腕が来ました。1949年のことです。昔の侍者服、真っ赤な袴はいて、オープンカーの前に立って香をもって、ザビエルの右腕に献香しながら、後ろ向きに町中を歩きました。それをたまたま隣のお坊さんが私を見つけて親父に言いつけました。「お前の家のバカ息子が耶蘇になってチンドン屋みたいな格好をしてなんかやっていたぞ」と。それで親父がまた怒りまして、ざまぁみろと思いました。非常に親不孝でした。ま、その償いを今しているんでしょうかね。

伊藤 そんなことがあって、カンボジアの子どもたちを引き受けた時には、必死になっていくわけですね。

後藤 償いですね。

伊藤 「father」というタイトルも、神父のファーザーと父親のファーザーがかけ合わさっているわけですね。

後藤 ですから小文字にしました。大文字にすると、私個人になってしまいます。小文字にしておけば、お父さんですし、神父であるということにもなります。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談2

女性観

伊藤 映画では子供の頃のお母様の思い出とか、おっぱいを吸ったとかいうことをおっしゃっていましたが……。

後藤 あれは小学校の5年生ぐらいのことだったろうか。兄妹がたくさんいたものですから、親の関心が生まれてくる小さい子にいきます。母の愛情をこちらにひきつけたかったんでしょう。そういうこともありました。恥ずかしいですね。

伊藤 ドミニコ会の押田神父様が同じようなことをおっしゃっていました。お母ちゃんの垂乳根が……と。

後藤 押田神父さんのお母さんも、ここの所属だったんです。よく知っています。そうですか、垂乳根の師ですか。

伊藤 後藤神父様が司祭になろうと決めた時に、彼女からの手紙に返事を書かなかったということですが、押田神父様も同じようにドミニコ会に入る時に、お母様が駅に見送りに来てホームでずっと手を振っていたのに、見もせずに去ったというようなことをおっしゃっていました。

後藤 映画の場面ではかわいいお嬢さんでしたが、あんなにかわいいお嬢さんではなかったんです。田舎の男にとって、東京で焼け出されてきた女性でしょう。東京の女性というのはすごくきれいに見えるんです。あの頃は相合い傘だって許されないわけでしょう。だから、僕はその彼女をたった1回だけ抱きしめたの。それは昭和天皇が地方巡幸なさった時、天皇を見に行きました。彼女は私より背が低くて見えないわけです。その時に思う存分後ろから抱き上げて「見えるか」としたわけです。後にも先にも1回だけです。

伊藤 断ち切るというのは、後藤神父様や押田神父様の世代では、司祭職に向かうという時には、もう帰らないという決意だったわけですよね。

後藤 そうですね。一刀両断の元に断ち切ったという感じでした。だからそれっきり行き来もしないし……。全部断ち切ったつもりだったのに、夏休みがきて、僕は勘当されたもんですから、家に帰れなかったんですね。みんな家に帰ってしまって、神学校は、私1人になってしまいました。淋しくなって家に手紙を出しました。すると、親父がすぐ帰って来いと言ってくれました。

そして帰って行きますと、親父が今日、あいつが帰ってくるからとビールを3本買って来て、当時は冷蔵庫がありませんから、朝、籠の中にビールを入れて、井戸の中に吊して冷やして置いてくれました。1杯飲めというので、出してきて1杯飲んで、「おい、お前、彼女から手紙が来ているぞ」と言って束になった手紙をドンと出してきました。あれで助かったんです。もしあれを転送していたら、指導司祭に呼ばれて「この女は何者か」と言われ、それでクビになっていた奴もいるんです。あの頃は手紙が来ると、指導司祭がみんな封を切って見てしまいます。それでいつもいつも来ると、これは何者かということになってしまいます。

伊藤 神父様は司祭になるために断ち切っても、彼女の方は、思っていたわけですよね。

後藤 手紙を出しても何も返事は来ないし、最初の頃は熱烈な手紙ですが、だんだんトーンが下がっていくわけです。そんなわけで全部読んで、初めて悪いことをしたなと思い、その手紙をかまどにくべて焼き、ハガキで返事を書きました。あの頃のハガキは小さかったんです。その小さいハガキの表に半分線を引いて、そこから書き始めて、どうしても書き切れないので、ハガキ5枚にその1、その2、その3と番号を振って、投函しました。なぜハガキに書いたかというと、家族みんなに見てもらいたかったんです。それで終わりです。

これには後日談がありまして、今から10年ぐらい前、NHKのラジオ深夜便に2晩続けて出たんです。1ヵ月後に評判がいいからと再放送がありました。再放送が終わった次の日にインタビューをしたオリンピックをやった花形アナウンサーの川村さんが「彼女から電話ありましたか」と電話してきました。「彼女が生きているか、死んでいるか、どこにいるか知りません」と答えました。「おかしいですね。300万人の人が聞いているんですから、生きていれば聞いているはずです」というんです。連絡もないし、もし生きていて連絡をしてきたって、70何年も何の行き来もしていないのに、急に出て来たって、話題もないし、続かないし、迷惑ですよ。そういうわけでそれっきりになりました。

伊藤 神父様の方は返事も書かないのに、そんなにたくさん手紙を書いてくれたものを読んで、心は揺れなかったんですか。

後藤 その時は無我夢中で、この道しかないと思って、ちょっとでも脇見したら、不埒な心構えだと思っていました。

あの頃は「聖アルージョの模範」というのがありまして、アルージョは女性の顔は絶対見なかった。お母さんの顔も見なかったと。それをそのまま信じて、私は大学に行っても、女の子たちがいっぱいいても、女性の顔を絶対見ませんでした。見たら心揺れ動くでしょ。

神学校でブラスバンドをやっていたんです。指導者に「日本楽器に行って楽譜とラッパのピースを買ってこい」と言われました。僕は悪魔の殿堂に入るようなつもりでした。あの頃、名古屋の栄にある日本楽器は美女をそろえていたんです。悪魔の館に入るものですから、顔を見ないようにして、必要なものだけを取って、「これください」と相手の顔を見たんです。そしたら、バーンと印象を受け、しまったと思いました。家に帰るバスの中でもそのイメージが出て来ますし、その日の晩の夕の祈りの時にも、「あの子に会いたいな」と。次の日、ミサの時も「どうしたらあの子に会えるのかな。何か用事がないかな」と思うようになりました。それで私は弱いんだなと思い、この道を行くためには、女性は悪魔の手先だと位置づけたんです。悪魔の手先と位置づけたら楽なんです。

今は違いますよ。今は女性は天使の手先だと思っています。

伊藤 そうですよね。映画の中で「じいさんでも女性の足のアキレス腱を見ると心が躍る」とおっしゃっていますよね。どこで変わったんですか。

後藤 どこで変わったんでしょうか。長いこと働いていますと、悪魔みたいな人よりも天使みたいな人がいっぱいいます。これは考え違いだったなと思い、それからは天使の手先ですよ。天使の手先だから迷うこともありません。

映画の中にルオーのベロニカが出てきます。ベロニカというのは聖書の中に出てこないんです。十字架の道行きに出てくるだけです。そこで僕はハッと思いついたんです。僕はこの絵が好きだったんです。じっと見ていて気がついたんですが、小学校に上がる前に大好きだったむつこさんという一緒に遊んでいた子がいました。この子から始まって、僕の心を揺れ動かすような女性がいっぱいいたわけです。僕はその女性たちを無意識の中でベロニカの中に押し込んだんです。だから今でもベロニカを見ると、「あぁ、あの子どうしているかな」ということも出てくることがあるんですが、非常に心は穏やかで、揺れ動きません。

(第3話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

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「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談

吉祥寺教会の後藤文雄神父様をご存じでしょうか。現在ドキュメンタリー映画「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」で話題になっている神父様です。この映画公開を記念して、AMORでは、編集委員に参加していただいている清瀬教会の伊藤淳神父様との対談を実現しました。神父様同士の対談は、映画の裏側を少しのぞくことができると思います。映画を観てからお読みになっても決して飽きさせることのない面白い対談になっています。4回にわたって、連載する形になりますが、その後、実際の対談現場の映像も流させていただく予定です。ぜひお楽しみください。(編集部)

カンボジアの子供たちの支援を始めるまで

伊藤 一番最初に後藤神父様を存じ上げるようになったのは、私がまだカトリックの女子校で教員をやっていた時のことで、神父様は毎月母親たちのための講話をしに来ておられました。その頃から「カンボジアの神父様」というのがキャッチフレーズのようになっていました。カンボジアに関わる活動自体を始められたのは1981年ですね。映画の中で私がすごく感銘を受けたというか、そうかと思ったのは、大和の定住促進センターの女性が神父様のところに援助のお願いに来て、神父様は吉祥寺という大きい教会で……。

後藤 信者さんにお願いしても、誰も応じてくれませんでした。

伊藤 私も、まったく同じ経験ではないですけれども、神父をやっていますと、そういうことはありますよね。信者さんにお願いして、いいことだと思うのに全然反応がないということは。その時、神父様の横にいた支援者の女性は恨めしげに……。

後藤 教会にはこんなにたくさん部屋があるのに、何で引き取れないのかというようなことを言われました。信者の皆さんにはお願いはするけれども、私自身がやるという発想はまったくありませんでした。信者にお願いしようと思ったのですが、誰も応えてくれない。そして、「この教会、部屋がたくさんありますね」と言われ、そうかと思いました。皆さんにお願いするよりも、まず自分でやらなければいけないのではないかと気づいて、始まったんです。

伊藤 映画の中でその話をなさっているときに、その女性がじっと見ていて、教会のお部屋のこととかを言い出したときに、神父さんが心底憤慨したとおっしゃっているのを聞いて、後藤神父でもそんな気持ちになることがあるのかと思ったのですが、それは本当だったのですか。

後藤 それは本当で、その時は自分でやるつもりはありませんでした。

伊藤 私が、さすがは後藤神父様と感ずるのは、自分もこの女性と同じことを信者にしていたんだと気づかれたのですよね。

後藤 そうなんですよね。それがことの始まりでした。それが最後にこういう形まで辿り着くとは思っていませんでしたけれども。

伊藤 私なんかですと、憤慨して、腹立って、言葉に出すかどうかは別にしても、「いい加減にしてください」とか、「今日はこれでおしまい」ということになりそうなところを、よく続けられましたね。

後藤 それは、私自身戦災に遭って、一晩で家族から何から何までなくしてしまい、住む場所も何もない、ただ人の情けに頼る以外に生きる道がなかったものですから、そういう経験が中に響いていたと思います。

でも僕はカンボジアがどこにあるのか知らなかったんです。あの辺だろうというのは分かったんですけれども、タイとベトナムに挟まれた小さな国というのも知りません。歴史も全然知りませんでした。そういうのが突然現れてきたわけです。ですから彼らを受け入れるというのも、全部分かった上で受け入れたのではなく、全然分からないままに、来てしまった彼らに居場所がないというのは気の毒だということだけでした。

伊藤 ここは神言会の修道院でもあるわけですよね。部屋が空いているということは、物理的にはその子供たちを受け入れ可能だったわけですね。修道会の方はどうだったのですか。

伊藤 特には問題にならなかったんですね。

後藤 ええ、全然。問題にはならなかったんですが、あいつが勝手にやっているんだから、というわけで、1981年から子供たちを預かっている94年までの間に、1回だけある管区長が「お前大変なことをやって、えらいな」とポケットマネーをくれましたが、あとは一切援助はなかったです。

伊藤 では、良くも悪しくも自由にどうぞということだったわけですね。

後藤 そうそう。あの頃カンボジアに行くと言ったら、まだポル・ポトが全国土の3分の1もしくは、半分ぐらい支配していた時ですから、勝手に行くんだったら、勝手に死んでも勝手にしろと言われました。

伊藤 そこまで言いますか。でも、広い意味では会の理解はあったということですか。

後藤 あったんでしょうね。やめろとか、出て行けとは言われませんでしたからね。

(第2話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中


第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展

いとうあつし(清瀬教会主任司祭)

 いささか旧聞に属する話ではありますが、寒風吹きすさぶ1月23日、外国人観光客で賑わう浅草吾妻橋のたもと、墨田公園リバーサイドギャラリーで開催されていた「第2回ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展」に行ってきました。
「アリの街」とは、戦後間もない1950年から1960年までの間、現在の隅田公園の一角にあった廃品仕切場の呼称です。戦災によって経済的に困窮し、廃品回収で生計を立てていた人たちが集まり、「蟻の会」という生活共同体をつくって、互いに協力し合いながら家族ともども共同生活を送っていました。

ゼノさんはポーランド人で、コンベンツアル聖フランシスコ会の修道士でした。のちにアウシュヴィッツ収容所で他人の身代わりとなって処刑された聖マキシミリアノ・コルベ神父らと、1930年に来日しました。長崎で『聖母の騎士』誌の出版を通して宣教に努め、戦後は戦災孤児らの救援活動に尽力していましたが、求められてアリの街に関わり、その支援に力を注ぐようになりました。

北原怜子さんは、東京の恵まれた家庭に生まれ育ちました。20歳で受洗、さらに修道生活を志しましたが、肺結核に倒れて断念、失意のうちにあったところでゼノさんと出会い、アリの街の特に子どもたちのために奉仕するようになりました。彼女の活動は「蟻の街のマリア」としてマスコミにも取り上げられ、その名を知られるようになります。結核の療養のため、一度はアリの街を離れましたが、さらに病状が悪化するとアリの街に移り住み、そこで28年の生涯を終えました。

資料展では、そんなアリの街の様子やゼノさんと北原怜子さんの姿を収めた写真約70枚、当時の新聞や雑誌の記事、さらには北原怜子さんの胸像をはじめとするアリの街ゆかりの物品が数多く展示され、大勢の来場者が見入っていました。

この資料展を企画したのは地元浅草の方々で、彼らはカトリック信者ではありません。それどころか、最初はゼノさんのことも北原怜子さんのことも知らなかったそうです。しかし、ルポ『風の使者ゼノ』(石飛仁著)を読んで感銘を受け、このような素晴らしい人たちの存在と活動を、若い人たちにぜひ伝えたいとの思いで企画し、ポーランド大使館やローマ教皇庁からの協力も得て実現させたのだそうです。

 この日は、北原怜子さんが亡くなって60年目の命日ということで、資料展の最後に全員で隅田公園内にあるアリの街の跡地まで移動し、追悼式を行いました。写真を飾り、ろうそくを灯し、聖歌を歌い、献花をしました。

ストラだけ掛けてそこにいればいいと言われていた私は、端の方でお飾りとしてボサッと突っ立っていたのですが、突然司会者に祈れと言われ、へどもどしてしまいました。しかし、そのおかげで心に残る思い出深い追悼集会になりました。


釜ヶ崎、こどもの里、そして映画『さとにきたらええやん』

伊藤淳(カトリック清瀬教会主任司祭)

『さとにきたらええやん』は愛おしい映画です。

舞台は大阪市西成区の釜ヶ崎。職を求める日雇い労働者と求人を代行する手配師が、ともに多数集まる「寄せ場」として発展してきた街です。

釜ヶ崎の様子

ドヤ街も形成されています。「ドヤ」とは簡易宿所「やど」の倒語です。日雇いといっても、数日から数ヶ月単位で雇われ、飯場で寝泊まりしながら働く場合も多いので、自宅を持たず、釜ヶ崎に戻った時だけドヤに宿泊するほうが経済的だったりするのです。

好景気だと求人も多く、雇われるチャンスが増えますが、景気が悪くなると選別が厳しくなります。屈強な若者から先に雇われるので、怪我人や年配者は仕事にあぶれ、やがて所持金が無くなるとドヤに泊まることができなくなりますが、仕事を得るためには釜ヶ崎に留まるしかなく、結果として野宿を強いられることになります。釜ヶ崎がホームレスの街でもある所以です。

野宿者のために、カトリックをはじめ数多くの支援団体が炊出しや夜回りなどの活動を展開し、行政もそれなりの対策を求められているので、他所と比べればまだマシと言えるのかもしれませんが、そのような環境を頼って、様々な困難を抱えた人々が、さらにまた釜ヶ崎に集まってくる結果にもなっています。

最近では、日雇い労働者や野宿者も高齢化が進み、それに対応して釜ヶ崎も生活保護の街に変貌しつつあります。ドヤの多くは、福祉アパートや外国人観光客用安ホテルに改装されています。

そんな街、釜ヶ崎に「こどもの里」はあります。

釜ヶ崎のこどもたちに健全で自由な遊び場を提供したいとの思いから、前身の「子どもの広場」がスタートしたのは1977年のことでした。集まってきたこどもたちの背後にあるのは、生活の不安定さであり、親が抱える社会的な問題の大きさでした。

基本的な生活習慣を身につけさせ、こどもの生活権を保障し、住まいを確保するなど、こどもが生きていくことへの手助けから始められた活動は、やがて、借金や家庭内暴力から逃げてきた、行き場のないこどもや親の緊急避難場所となっていきます。

1980年、現在の場所に「こどもの里」が開かれ、こどもが安心して遊べる場の提供と生活相談を中心に、常にこどもの立場に立ち、こどもの権利を守り、こどものニーズに応じることをモットーに、活動が続けられてきました。

その後、事業の移行や拡大、事業主体の変更などを経た「こどもの里」ですが、こどもたちが抱えるしんどさ、生きづらさは軽減していない、放課後のこどもたちの行き場だけでなく、生活の場としてのニーズはむしろ高まっているとして、0歳から18歳までのすべてのこどもたちが利用できる遊び場、居場所を守っていく活動を、24時間フル回転で続けているのが現状です。

映画『さとにきたらええやん』は、そんな釜ヶ崎の、そんな「こどもの里」に身を置く三人のこどもを中心に、こどもたちと館長の荘保共子さんをはじめとするスタッフや街の人々とのかかわりを、丁寧にすくい取ったドキュメンタリー作品です。重江良樹監督はボランティアとして「こどもの里」に通い、7年もかけてこの映画を完成させているので、登場人物は誰もが飾り気のない自然な姿をカメラの前に晒していますが、それゆえに、「こどもの里」を必要とするこどもたちの生きづらさ、その親たちのしんどさが赤裸々に表出されていて、観る者に重い問いを突きつけてきます。

しかし、この映画にはまた、彼らのしんどさ、生きづらさにとことん寄り添い、包み込み、なんとか助けになろうとするスタッフやこどもたち同士の愛が滲み出ています。そして、そのような愛に包まれ、支えられ、励まされて、厳しい現実をなんとか乗り越えようと前を向くこどもたちの生きざまとそのエネルギーに、私たちも希望を見出し、そのおすそ分けに与ることになるのです。

社会の現実を突きつけられ、立ち止まって考えさせられると同時に、ほっこりと優しい気持ちにされ、再び前進する力を与えられる映画、それが『さとにきたらええやん』です。

必見!

 

【映画スタッフ】

監督・撮影:重江良樹
音楽:SHINGO★西成
プロデューサー・構成:大澤一生
編集:辻井潔
音響構成:渡辺丈彦
制作協力:神吉良輔(ふとっちょの木)、五十嵐美穂、上田昌宏、吉川諒
機材協力:ビジュアルアーツ専門学校大阪
特別協力:小谷忠典
助成:文化庁文化芸術振興費補助金
企画:ガーラフィルム
宣伝・配給協力:ウッキー・プロダクション
製作・配給:ノンデライコ
2015|日本|100分|カラー|16:9|5.1ch|DCP

公式サイト:http://www.sato-eeyan.com/

 


『悪魔祓い、聖なる儀式』

伊藤淳(清瀬教会主任司祭)

 人間vs.悪魔/“エクソシスト”は現代に存在した!/ヴァチカン騒然!1200年も続く秘儀“悪魔祓い”外部に閉ざされてきた神秘の現場、世界初公開/本当に悪魔はいるのか?社会が抱える闇とは?さまよえる現代人必見、究極の「癒し」を体感/神父、我を救い給え/ヴァチカン騒然‼ 現代のエクソシストの実情に迫った衝撃のドキュメンタリー!

…チラシに並べられた宣伝文句の数々である。子供の頃、かの伝説的映画『エクソシスト』を観て夜中にトイレに行けなくなった経験を持つ者(私です)にとって、怖いもの見たさの感情を再燃させるに十分過ぎるこのキャッチーなコピーにのせられ、私はおそるおそる試写室の椅子に身を沈めた。

そして94分後、顔をそむけることも悲鳴を上げることもなく、無事に試写室をあとにすることができた。全然怖くなかった。むしろ面白かった。これなら、時々テレビでやってる日本の除霊の番組の方がよっぽど怖い。

この作品はドキュメンタリーであり、映し出される悪魔祓いの映像はすべて本物である。それなのに、あるいはそれゆえに、恐怖に震え

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

あがるような場面はひとつもない。首がぐるぐる回転したり、ブリッジの体勢で階段を降りたりするような悪魔の所業は、幸か不幸かまったく映っていないのである。この映画に出てくる悪魔憑きに限って言えば、それらは超常現象などではなく、常識の範囲内で説明可能なもののように私には思えた。

監督のフェデリカ・ディ・ジャコモは、本作で第73回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門最優秀作品賞を受賞しているが、審査員も監督自身も、この作品を怪奇現象をとらえたものとして評価しているわけではないだろう。この映画が描こうとしているのは、悪魔祓いのおどろおどろしさではなく、日常の営みの中で負わされてしまった精神的、霊的な悩みや苦しみや痛みを癒してもらうべく、特異なかたちで希求する人々の姿であり、その苦悩になんとか寄り添い力になろうとする、善良で純朴なエクソシストの姿なのだ。それゆえ、テレホン悪魔祓いとか、合同祓魔式とか、国際エクソシスト講習会とかいったアップトゥデイトな悪魔祓いの様子が、当事者たちの真剣さとは裏腹に、時にユーモアさえ醸し出す結果になっている。

それにしても、キャッチコピーにある「ヴァチカン騒然」というのはいったい何事か。何が原因でどのような騒ぎになったのか。そのあたりの説明は映画の中にはないので、一言ふれておく必要があるだろう。

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

この作品、確かにヴァチカンでは評価されなかった。それは、この映画に登場するエクソシスト神父の悪魔祓いが、公式な典礼規定から逸脱しているからであり、しかもそれを映画に撮らせ、公開してしまったからである。つまり、「大変だ!門外不出の悪魔祓いの秘儀が暴かれてしまった‼」と大騒ぎになったわけではなく、「これがカトリック伝統の悪魔祓いだと誤解されると困るなぁ…」と少しだけ心配されたのである。その程度の反応が、「ヴァチカン騒然」の真実なのである。コピーは煽り過ぎなのである。

もう一言、加えておきたい。

友人の精神科医にこの映画の内容を伝えて意見を求めたところ、映っていたような悪魔憑きは、精神医学ではトランス及び憑依障害とされ、適切な治療によって快癒する可能性が十分にあるものだと教えてくれた。そして、悪魔に憑かれた(とされる)人とエクソシスト神父との間に共依存関係が生じて症状が悪化してしまわないか心配だと、同じ神父である私を気遣ってちょっと遠慮がちに付言した。

ヴァチカンより精神医学界の方がよっぽど騒然としそうな問題作ではある。

監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
原題:LIBERAMI/2016年/イタリア・フランス/94分/日本語字幕:比嘉世津子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル

11月渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開