『悪魔祓い、聖なる儀式』

伊藤淳(清瀬教会主任司祭)

 人間vs.悪魔/“エクソシスト”は現代に存在した!/ヴァチカン騒然!1200年も続く秘儀“悪魔祓い”外部に閉ざされてきた神秘の現場、世界初公開/本当に悪魔はいるのか?社会が抱える闇とは?さまよえる現代人必見、究極の「癒し」を体感/神父、我を救い給え/ヴァチカン騒然‼ 現代のエクソシストの実情に迫った衝撃のドキュメンタリー!

…チラシに並べられた宣伝文句の数々である。子供の頃、かの伝説的映画『エクソシスト』を観て夜中にトイレに行けなくなった経験を持つ者(私です)にとって、怖いもの見たさの感情を再燃させるに十分過ぎるこのキャッチーなコピーにのせられ、私はおそるおそる試写室の椅子に身を沈めた。

そして94分後、顔をそむけることも悲鳴を上げることもなく、無事に試写室をあとにすることができた。全然怖くなかった。むしろ面白かった。これなら、時々テレビでやってる日本の除霊の番組の方がよっぽど怖い。

この作品はドキュメンタリーであり、映し出される悪魔祓いの映像はすべて本物である。それなのに、あるいはそれゆえに、恐怖に震え

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

あがるような場面はひとつもない。首がぐるぐる回転したり、ブリッジの体勢で階段を降りたりするような悪魔の所業は、幸か不幸かまったく映っていないのである。この映画に出てくる悪魔憑きに限って言えば、それらは超常現象などではなく、常識の範囲内で説明可能なもののように私には思えた。

監督のフェデリカ・ディ・ジャコモは、本作で第73回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門最優秀作品賞を受賞しているが、審査員も監督自身も、この作品を怪奇現象をとらえたものとして評価しているわけではないだろう。この映画が描こうとしているのは、悪魔祓いのおどろおどろしさではなく、日常の営みの中で負わされてしまった精神的、霊的な悩みや苦しみや痛みを癒してもらうべく、特異なかたちで希求する人々の姿であり、その苦悩になんとか寄り添い力になろうとする、善良で純朴なエクソシストの姿なのだ。それゆえ、テレホン悪魔祓いとか、合同祓魔式とか、国際エクソシスト講習会とかいったアップトゥデイトな悪魔祓いの様子が、当事者たちの真剣さとは裏腹に、時にユーモアさえ醸し出す結果になっている。

それにしても、キャッチコピーにある「ヴァチカン騒然」というのはいったい何事か。何が原因でどのような騒ぎになったのか。そのあたりの説明は映画の中にはないので、一言ふれておく必要があるだろう。

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

この作品、確かにヴァチカンでは評価されなかった。それは、この映画に登場するエクソシスト神父の悪魔祓いが、公式な典礼規定から逸脱しているからであり、しかもそれを映画に撮らせ、公開してしまったからである。つまり、「大変だ!門外不出の悪魔祓いの秘儀が暴かれてしまった‼」と大騒ぎになったわけではなく、「これがカトリック伝統の悪魔祓いだと誤解されると困るなぁ…」と少しだけ心配されたのである。その程度の反応が、「ヴァチカン騒然」の真実なのである。コピーは煽り過ぎなのである。

もう一言、加えておきたい。

友人の精神科医にこの映画の内容を伝えて意見を求めたところ、映っていたような悪魔憑きは、精神医学ではトランス及び憑依障害とされ、適切な治療によって快癒する可能性が十分にあるものだと教えてくれた。そして、悪魔に憑かれた(とされる)人とエクソシスト神父との間に共依存関係が生じて症状が悪化してしまわないか心配だと、同じ神父である私を気遣ってちょっと遠慮がちに付言した。

ヴァチカンより精神医学界の方がよっぽど騒然としそうな問題作ではある。

監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
原題:LIBERAMI/2016年/イタリア・フランス/94分/日本語字幕:比嘉世津子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル

11月渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開


 


遠藤周作氏の創った劇団樹座

いとうあつし

「樹座に入ってた神父がいるなんて信じられないなぁ!」

周作クラブ会長の加賀乙彦先生に初めてご挨拶申し上げた時の反応です。

 無理もありません。座長の遠藤周作先生が団歌に「あほらしき劇団樹座よ」と歌うほど、あの劇団は確かに奇天烈でした。(ちなみに私が座員だったのは大学生のときですから、正確には神父が樹座に入っていたのではなく、樹座に入っていた人間が神父になったということです。誤解なきよう。)

 まずは樹座という劇団名。字面はなかなか美しいのですが、これで「キザ」と読みます。「キザなヤツ」のキザです。

 入団審査も変でした。演劇経験者はふるい落とされ、演技がヘタクソであればあるほど歓迎されたのです。結果、座員になれたのは「ド」が付くほどの素人ばかりでした。

 いざ稽古が始まると、素人劇団とはとても思えない状況が待っていました。

 座員は確かに素人ばかり、老若男女が偏りなく集められていましたが、よく見ると、その中にはなんと北杜夫、佐藤愛子といった大御所作家の先生方が混じっておられたのです。私の相手役は古山高麗雄先生でした。感動するやらビビるやら、ただただ狼狽えるしかありませんでした。

 裏方は全員プロ。演出やダンスの振付、舞台装置などはすべて劇団四季のスタッフが指導して下さいました。超大物女優が演出に名を連ねることもありました。とにかく舞台の表と裏のギャップが凄すぎたのです。

 当然の帰結として、私たちドシロウトはこれらプロフェッショナルをしょっちゅうマジギレさせることになりました。

「なぜこんなことができないんだ! ちゃんとやれ‼」

こんなことができない人、ちゃんとやれない人ばかりをわざわざ選んでおきながらそんな無茶な…、と反論できるような立場でもなく、極限に達した緊張で歌う声はますます上擦り、踊る手足はますます突っ張ってしまい、それでまた怒鳴られる始末でした。

 そして本番。私が出演した第十回記念公演の舞台はなんと、あの帝国劇場でした。(帝劇は樹座への使用許諾を後悔し、その事実を封印したという噂もあります。)座員がドシロウトである以外はすべてホンモノ、もったいないほどの大舞台で、役者は大真面目に悲劇を演じているのに客席はなぜか大爆笑という奇妙奇天烈な芝居が繰り広げられたのでした。

 のちに分かったことですが、遠藤先生は、素人が必死に頑張っている(にもかかわらずうまくできない)のがいいのであって、素人の慣れた演技ほどつまらないものはない、と考えておられたようです。言い換えれば、ドシロウトなりに真面目に遊び、ヘタクソなりに全力で楽しむということが、この珍妙な劇団樹座の目指すところだったということでしょうか。

 劇団樹座の奇天烈さを体験すると、『沈黙』のような純文学を書かれる遠藤先生が、同時に狐狸庵シリーズのような作品を執筆された理由が、ちょっとだけ分かるような気がするのです。


愛するなんて無理!

                伊藤淳

 

中学や高校で生徒さんたちに話す機会が時々ありますが、そこでよくこんな質問をします。

「クラスにどうしても気が合わない人がいる とします。ある日、忘れ物でも取りに誰もいないはずの教室に戻ったところが、その人がいて、苦しそうにうずくまっていたら、あなたはどうしますか? 好きじゃない子だからといってそのまま立ち去りますか? 『どうしたの? 大丈夫?』って声かけませんか? 保健室に連れて行ってあげませんか? 先生を呼んで来ませんか?」

みんな頷いてくれます。

当然です。まっとうな人間なら、好きか嫌いかにかかわらず、なんとかしようとするもんです。しなくちゃいけないんです。人として当たり前のこと、それが大切にすること、愛するということなんです。

好きになれない人、どうしても許せない相手でも、それでも大切にする。神様から等しく愛され、大切にされている人間同士なのですから、お互いに大切にしあわないなら、神様に失礼、申し訳ないってもんです。

キリスト教は愛の宗教だといいます。隣人を愛せとか、敵を愛せとか、確かにイエスも言っています。

そうすると、「敵を愛するなんて不可能だ!」という反応が返ってきそうです。キリスト信者の中にも「あの人だけは許せない、愛するなんて無理!」なんて言ってる人が(けっこう)います。きっとひどいことされたんでしょうね。

理想と現実の違いと言ってしまえばそれまでですが、問題は「愛」という言葉にあるのではないかと考えます。

038881現代において、「愛」という言葉は恋愛のイメージに引っ張られていて、「好き」とほとんど同義語のように使われています。「愛してます」は「好きです」という意味、「愛するなんて無理!」というのは「好きになるなんて無理!」という意味でしょう。

しかし、イエスの言う「愛」は、「好き」の意味ではないのです。

「愛」は、新約聖書の原語であるギリシア語で「アガペー」という言葉の和訳ですが、明治の開国以前は「御大切」と訳されていました。イエスの言う「愛」の本来の意味がよく分かる訳です。愛するとは大切にすることであって、好きになることとは次元が違うのです。              (カトリック司祭)