西洋中世社会史学者阿部謹也の秘密


いとうあつし(東京教区司祭)

『AMOR』の石井編集長から、「今月は中世を特集するので、中世についての見方を変えて豊かにしてくれた阿部謹也先生のひととなりや学風、その業績の特色について、直接学ばれた立場から何か書いてほしい」との依頼を受けました。確かに大学時代、“阿部ゼミ”に所属してはいましたが、不肖の弟子であった私にいったい何が書けるのか、まことに心許ないかぎりであることを最初にお断りしておきます。

1982年4月、一橋大学の3年生になった私は、阿部先生が担当するゼミナールの門を叩きました。『ハーメルンの笛吹き男』や『中世を旅する人びと』『中世の窓から』といった一般向けの(一般ウケする)著作がベストセラーとなり、社会史ブームの到来とともに阿部謹也の名が広く世に知られるようになっていたにもかかわらず、どうみても食べていけそうにない西洋中世社会史のゼミに集った同期は、私も含めてたったの5人、ひとつ上の学年にはひとりもいませんでした。

奥鬼怒へのゼミ合宿での阿部先生と筆者。

学内では不人気だった阿部ゼミには、学外の学生や社会人が何人も参加していて、一般社会における熱狂的な阿部謹也ファンの存在を証明していました。先生は当時、『放浪学生プラッターの手記』の翻訳を進めておられましたが、プラッターのような純粋且つ個の確立した学究態度をとても評価されていて、正規のゼミ生以上にそうした外部からの参加者を歓迎なさっていましたし、私たちにも「興味のある他大学の講義に潜り込んで来なさい」と促しておられました。

阿部先生は、網野善彦氏などと並んで、日本における社会史ブームの火付け役と位置づけられていましたし、それは結果として事実だろうと思います。日本近世史学者の安丸良夫氏も、「阿部先生に『「民衆史」から「社会史」へ』などと挑発された」と述懐しておられます。

しかし、阿部先生ご自身が「自分の専門は社会史というよりは心性史だ」と仰るのを聞いたことがありますし、また、「よく『アナール学派ですか』と聞かれるんだけど、そうではない」と仰っていたのも覚えています。樺山紘一氏が、「阿部さんは学派とか、学会とかいった、研究者を区別する制度や慣行に、まったく冷淡であった。専門領域の区分にすら、あまり関心をはらわない」と評しておられたことと符合します。

このような先生の態度や姿勢は、単に性格とか人柄とかが表出しただけのものではなく、研究にも通じる阿部先生の生き方そのものの反映だったのだと思います。

「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探しなさい」。

これは、阿部先生が学生時代に師事した上原専禄先生の言葉ですが、私たちはこの言葉を阿部先生から何度も聞かされました。上原専禄という学者が阿部先生に与えた影響の大きさが伝わってきます。また、上原先生のことを「学問と生き方が一つになった稀有の例」だと『阿部謹也自伝』に書いておられますが、薫陶を受けた阿部先生もまたそのような方でした。

阿部先生らが編集同人となって刊行された『社会史研究』の創刊号には、「人間と人間の関係の変化を明らかにしたいという素朴な関心を抱いて歴史研究を営みはじめ」たと書かれています。そして、「私のヨーロッパ中世社会に対する関心は時間意識、空間感覚、モノをめぐる関係の重層性といった三つの主軸にそって出されて」おり、その「いずれの面でも人間と人間の関係に新しい座標軸が生まれつつあった時代」としてヨーロッパ中世を研究対象にされたことが明かされています。

些末化した好事家の趣味的な研究を疎んじ、「たとえかすかな光であっても、現在の自分に反射してくるような歴史研究でなければ意味がない」と仰っていたことも考え合わせれば、先生の関心が一貫してご自身を含めた人間存在そのものにあり、また人間と人間の関係やそれを支える人間の心性にあったことが分かります。ヨーロッパ中世は、それを追求するための材料のひとつに過ぎなかったのです。ですからその後、先生の研究が西洋中世社会史から日本世間論に移っていったのも、まったく不思議ではありません。「歴史学は人間の尊厳をたしかめるためにある」という阿部先生の言葉に、先生の学風と業績のすべてが集約されていると思います。

奥鬼怒へのゼミ合宿での阿部先生と筆者。

ひとつだけ、阿部先生の学風(?)をよく表しているエピソードを挙げておきます。1986年に公開されたウンベルト=エーコ原作の映画『薔薇の名前』は、ヨーロッパ中世の世界をリアルに忠実に再現した傑作として評判になっていましたが、コメントを求められた阿部先生は、「中世を舞台にした現代人の話だ。主人公の心性は現代人のもの。あんな思考や行動を中世人は絶対にしない」などと、天下の中世思想家エーコを相手にまったく忖度せず、客足を遠のかせるようなことを堂々と(不機嫌そうに)語っておられました。

2006年6月、久し振りに同期で先生を囲んでランチをしました。このとき私は東京カトリック神学院の神学生でしたが、そのことを聞いた先生は、「洗礼っていうのは、なかなかいいものですね。こんな私でも洗礼を受けた時には、とても清々しい気持ちになりましたよ。そうだ、私が死んだときには伊藤神父に葬式をしてもらおう」と、予想もしないことをにこやかに仰いました。修道院に預けられていた中学時代に受洗したものの、すぐに土井枢機卿に撤回を申し出たというエピソードを、学生時代に先生から直接伺っていたので、先生のこの意外な感想と依頼に、驚くと同時にとても嬉しくなりました。

それからわずか3カ月後、先生は突然亡くなられてしまい、葬儀ミサの司式も叶いませんでした。しかし、先生のおかげで、それをやらなければ生きていけないというテーマをキリストに見定めることが出来たことに感謝し、人間の心性に目を配りながら司祭召命の道を歩む決意を、阿部先生の遺影の前で般若心経を唱えながら心に誓ったのでした。

「死は人を生きるものから隔てるように見えるが、そうではない。死によって世間的な付き合いがなくなっただけ、以後は純粋な付き合いができるようになる」。これは阿部先生が書かれたある追悼記事の一節です。司祭になった私も、葬儀ミサの説教で神学的な観点から偶然にも全く同じ話をしています。カトリックから離れ研究者の道を極めた阿部先生と、勉強嫌いでカトリック司祭になった私が、時々こうして交点をもつ不思議を改めて感じています。

 


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