「AMOR--陽だまりの丘」は、有志の企画編集委員のチームワークから生まれています。創刊からのメンバー、途中から参加のメンバーは、70代から30代まで、大きくいえば二世代住宅のような構成で思案を絞り、熱く議論する仲間たちです。そんなメンバーとともに、創刊から5年間の歩みを反省し、これからのAMORの進め方を探りながら、話し合いました。たんなる一マガジンの楽屋話にとどまらず、いろいろな問題が提起されているのではないでしょうか。各自の発言の要旨をつないでみました。
口火を切ったメンバー「Y.C」。今回の振り返りのために、これまでのすべての記事の総索引をもとに語り、自身で文章にまとめてくれました:
若手メンバー、カトリックではないがキリスト者であるという立場から支えてくされているメンバー:
カトリックの伝統に深くつながりながら、最先端のメディア活動にも関心の高いメンバーからは:
このプロジェクトの発起人のひとり、運営実務の基盤を支えているメンバーからは:
同じく発起人のメンバーから、二番目に年長のメンバーから:
AMORを立ち上げてからこの5年の間に教皇来日があり、これをきっかけにさまざまなテーマを深めていこうとしていた矢先にコロナが来た。ここ2年、コロナの中でよくやってきたな、と思っている。ウェブマガジンだからできた、よくやってきたと思いたい。課題として、教会と社会の関係を考えること、社会的事象や問題を取り上げる、ということがあると思う。これについて、議論していかなければならないと、感じている。
キリスト教的なことばをなるべく使わずに、という、基本は忘れずにすることはもちろん大事だが、その一方で、イエスのことばに近づくことによって安心感を得るということがたしかにある。聖書を読むということで、聖書のことば、そこにある「うめき」が響いてくる――(若松英輔氏「うめきの神学」)――そういう方向性を求めていきたい。この問題に関しては、高橋源一郎と辻信一の対談『弱さの思想:たそがれを抱きしめる』(大月書店2014年)、両氏共編の『「雑」の思想:世界の複雑さを愛するために』(同2018年)、『「あいだ」の思想:セパレーションからリレーションへ』(同2021年)という三部作が参考になる。キリスト教的なものが時代の中で求められていると感じられるようなヒントが数多くあると思うので見てみてほしい。
新しいほうのメンバー、さまざまなメディアにかかわった経験を豊かにもっているメンバーからは:
創刊時に、関係メンバーのなかでもっとも若かったメンバー、信者ではないが、神学を学んだという絶妙な関係性の中に身を置きつつ、サイトとしてのこのマガジンの展開を支えてくれているメンバーの目には:
もうひとり、創刊時、若手のほうだったメンバー、神学、聖書の専門家の部類に入るメンバーだが、この5年の間に、どんどん活躍の場を広げている。批判精神旺盛な、その人の発言は:
もう論点は出尽くしているかなと思います。総索引を見てみると、3分の2がキリスト教に関するもので、それがたぶん我々の得意分野なのだろうと思いますし、我々の財産なのではないかなと思います。よく「難しい」といわれるとき、なにをもって難しいといっているのでしょうか。ある記事がある人には難しいといえば、別な人には難しくないということがある。この編集メンバーの間にさえも。まず「難しい」ということに関して認識の一致がないような気がするのが問題と感じます。人は、難しいと思うものを避けることができる、つまり読まないでいることはできます。我々が届けたい人たちの何割かは、こういう世界があることさえも知らない人です。必要としているのに気がついていない。そんな、人たちに届けられるようになるにはどうしたらよいのか。
いずれにしても、キリスト教的ではないけれども、キリスト教的なもの、それをわれわれのテーゼにすべきであると思います。それは、結局「人間的であること」「いのち」をテーマにするということ、このことを深めていくことが大事ではないかなと思います。自分自身、まだ発揮できていないが、チャレンジだと思っています。
プロジェクトの発起人のひとり、企画編集メンバーの最長老、しかし、もっとも新しいツールにとびつく感覚も持ち合わせる、AMORらしさの一面を象徴する先輩のメッセージ:
総索引をみて、これだけのコンテンツがあることを活用していきたいということがまず思うことです。今後のどんな企画を立てるときにも、前にこんな特集をやりましたよ、とリンクさせることが大事。それがウェブマガジンならでは特色になるでしょう。また、執筆者を通じて、これまであまりメディアの登場していなかった人たちを発掘できているという点もよいことだと思います。名の知れている神父とかシスター、学者ではなくて、普通の人として発想している執筆者の広がりができているがいいなと思う。そして、もちろん読者を広げていくことは、福音宣教を目ざすメディアであろうとするかぎり大事なことで、そのためにてっとりばやいのはSNSをもっと使うことだと思っています。
テーマ的には、宗教臭いものは避けたいというのが当初の願いでしたが、まったく宗教臭さがなくなっていくのも問題かなと最近は思います。そのはざまをどうするか、一般メディアが取り上げるような記事やテーマをとりあげ、それをどういうふうに展開させていったらよいかというところが課題だろうと思います。
最後に、創刊時メンバーの中では三番目の年長。広い意味では神学研究の分野に身をおきつつ、信徒としては、広く宣教に向かいたいと思ってきたひとりから反省の弁:
まず5年もよく続いたな、という感慨が大きい。最初は「AMORが何か」ということをずいぶん説明しつつ書いてください、とお願いしていたのが、5年やっているなかでなんとなく雰囲気が変わってきた。書かせてもらって光栄だという声、嬉しいという声にも出会うことが多い。どこでどう認知されているのか、講読者登録数の少なさと反比例する感触にも驚かされるところがある。ともかく、AMORをやっているということがある程度通るようになってきた。これは一つ大事かもしれない。
キリスト教信者のためではない、キリスト教メディアという出発点は、出発点というより、究極の目標という面が強いように思う。それに向かって、我々神学部系の者たちが、そこから出発しつつ、どこまでやれたか、なにがやれていないかを、精査し、評価する必要がある。
中身的に、各自や知り合いがすでに発表したり、教会の勉強会で展開していたり、何かの授業や講座で披露してきた内容を借りてきて、それを載せていったという部分が多い。正直に言って、いわば続けていくための、資材として借りてきたようなもの。キリスト教を知らない人が読めるようになるかどうかの試金石は、まず神学の専門的なことを、神学を知らない信徒が読めるようにしていく、という段階が必要に思ってやってきた。
ほんとうのAMOR的な理念でつくられたものを載せていくのは、これからだと思う。今はまさに変わり目。だから、こういう機会があるに違いない。メンバー、編集長を新しくするのも手、少なくとも気を入れ直していく必要があるだろう。
さて、このような発言をもとに、さらに座談会では話が展開していったのですが、それはそれこそ、舞台裏話にもなりました。むしろ、ここで交わした発言をもとに、それぞれで考察を膨らませて、文章として寄せようということになり、4人のメンバーが寄稿することになりました。リンク先に記事があるものもあります。ここでは、発言者は匿名にしましたが、どの記事が、この発言録の発言者であるかは、たぶん、お読みになるとわかると思います。そのあてっこもまた、楽しんでみてください。
ありがとうございました。