コロナと教会と私


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.自粛要請の緩和の中で。

極寒の吹雪の中を生き残った。そして、春になって、寒い土の中から新しい芽が育っていくかの如く、徐々に様々な教派の礼拝が再開されようとしているここ最近。それだけではなく、社会の経済そのものも、徐々に動き出している。未だにステイホームが呼びかけられる中、教会という家には行けていない状態が続いている。しかし、そのこともあってか、自分にとって大切なものがまた少しわかったような気がする。

新型コロナウィルス感染症の流行とそれに伴う教会の礼拝の中止、そして緊急事態宣言といった様々なニュースが流れる日々が始まって、もう3ヶ月近くが経過する。この間、世界が体験した出来事は、中世ヨーロッパでペストが流行したときのように、人々が疑心暗鬼に陥り、不安や怖れ、怒りが支配する時代を思い起こさせるものであった。私のように、人類がこれだけ科学的に進歩し、テクノロジーで何でも解決できると考えていた人間にとっては、ウィルスに対してかなりの敗北感があるのではないだろうか。

緊急事態宣言が解除され、経済活動やミサについてもだんだんと再開の目処が立っているが、これまでの間、そして今も、倒産が相次ぐといった経済的な問題や、社会保障からこぼれ落ちる人々のケア、現実の複雑さに対応しきれない行政など、様々な部分に目が向かっていってしまう。SNSでは、この閉塞的な空気に対するフラストレーションがたまっている人々の姿が見られる。

その一方で、人類は新しいコミュニケーションの形を模索している。人間同士であればZoomやIT環境でどうにか対処できるが、人間と神との関係はどうすればいいのか。もし私たちが神の喜びのために生きているのであれば、どうすれば、何が御心なのだろうか。

 

2.ミサ配信について。

私の周りでは、オンライン上での青年の祈祷会や聖書研究、集会、講義など、様々な可能性が開かれつつある。例えば、私に洗礼を授けてくださった牧師の関野和寛先生は、毎日短い動画を発信している。(YouTubeの『関野和寛牧場』チャンネル)他にも、今は様々なキリスト教に関する動画がたくさん公開されており、信仰者の言葉や姿を見ることは本当に励ましになっている。

また、私はルーテル教会の信徒なので、今まで関口教会の聖マリア大聖堂の主日ミサには一度も行ったことがなかった。しかし、今は毎週の主日の菊地大司教様の説教やミサを見ることができるため、カトリック以外の人にも開かれた良い機会となっているし、典礼聖歌もまだ知らない曲が多いので、更に深く知る手助けとなっている。

このように、教会関係のことであっても、人間同士の関係性はある程度インターネットによって代替できるかもしれない。新しいことに常にチャレンジする姿勢は、キリストの教会においても必要であろう。しかし同時に、何かが決定的に足りないと感じている。私たちは日曜日に礼拝堂に集まるときに、一体何を受けているのだろうか。

例えば、プロテスタントの聖餐、カトリック教会の聖体拝領、つまり御聖体をいただくという物理的な問題はミサ配信だけでは解決できず、限界があるだろう。カトリック教会は聖体拝領が中心であるため、プロテスタント教会よりもミサの再開が遅いようだ。プロテスタント教会もしばらくの間は聖餐ができないが、礼拝の中心はそこだけではない。プロテスタント教会では、「説教」などの「み言葉」の担う役目が大きい。み言葉の糧は、霊的な糧である。霊的聖体拝領のように、物質のない中で神との繋がりを得る手段だろう。だからといって、聖餐の価値が低いわけでは決してない。聖餐が礼拝の頂点である事実は変わらない。だから、ずっと聖餐がないことは当然ながら問題である。

しかし、直接の聖餐や聖体拝領がないからといって、その礼拝やミサは意味がないように扱うことも問題であろう。実際に、東京大司教区の信者数(約9万6000人)に対して、ミサ配信の視聴回数は明らかに少ない(最大約5万回、2020年6月16日現在)。このような現実の中で、教会はどのように対処していけばいいのだろうか。

 

3.オンラインの青年活動の広がり。

このコロナウィルス騒動についてオンライン講演などの中でよく聞くことは、教会の青年たちへの色々な心配である。それは、礼拝やミサ配信の方が楽で良いからといって、事態が終息しても若者が教会に来なくなるとか、これを機に新興宗教の方に青年が移っていってしまうといったような懸念だ。私にはどうしてそのような考えになるのか、正直理解できない。確かに、私も含め、若者は信仰的にも人間的にもまだ熟練していないし、経験が浅いのかもしれない。しかし、信じられないほど熱意のある若者もたくさんいる。彼ら彼女らの自由な熱意を教会は汲むべきだと感じている。

結局大切なのは信徒活動なのだろう。第二バチカン公会議がいうように、全ての洗礼を受けた信仰者は「神の民」であるということの実践である。私が今参加している青年オンライン祈祷会というのは、その一つかもしれない。そこには、牧師も神父も修道者もいないが、聖書を読み、近況を報告し、祈り合っている。私はそれが始まってから、ものの見方や考え方が随分変化し、改めて今までと違うものが見えてきたと実感している。テレビやマスメディアなどをずっと見ていても、不安や焦燥感に煽られるだけであるのに対して、祈祷会は神がいるという絶対的な根拠から溢れてくる安心感が圧倒的に強い。

その上、2人または3人で祈ることはもっとも身近で、そこに「神がいる」共同体が生まれてくる。私たちは自分の願望よりも、ある意味神の目線かのように俯瞰しながら、他者に対する配慮の心を覚える必要がある。そこに、人間の個人的な限界を超えた神がいて、隣人を愛する空間が生まれるのだろう。

 

4.教会という第2の家。

私は教会が好きだ。生きている神を何よりも感じる事ができるからである。それは、聖書研究をするときであっても、祈るときであっても、教会の礼拝で触れる空気やそこに満ちる聖性には、その土地や建物に染み付く情念のような霊性がある。人間は肉体的に死んでも意志や想いはそれなりに残ると感じさせるような雰囲気や、床の傷や窓のかすみ具合、空気の重さによって、そこには何かがあると誰にでも思わせるものが、教会にはある。神と繋がり、生きる感謝に満ちている。そこには、先人たちが分裂と和解を繰り返した、血の流れるような意志を感じる。

私は成人洗礼にも関わらず、まるで教会で育ったかのように教会を第2の家だと信じている。血縁を超えて支え合い、励まし合い、そのときの空気感で元気なのかそうでないか分かるような関係性がある。イエス様が弟子や社会的に排除された人たちと食事し、語り合いながら神の気持ちや想いを伝えていったように、私自身も神の家族の中で、だんだんと神についてわかるようになっている日々があった。

神を賛美し、共に食事し、礼拝をすることが、自分にはとても大切なものだと改めて感じる。そして何よりも、自分の信仰は自分だけのものではないと身にしみて深く思い知らされた。今のとうに一人でいるとすぐに迷ってしまうし、他のものに心がそれてしまう。そういう自分の無力さへの物悲しさと同時に、たとえオンラインであっても、私たちが言葉を交わし合い、少しでも顔を見て共に過ごす時間の中に、イエス・キリストもいるのだろうと知った。私たちが迷子になったとき、イエス・キリストという牧者が私たちを探し出し、安心できる家に、元の群れに、戻してくださる。

私も最初はものすごく抵抗があったのだが、徐々にIT環境の中でも聖霊の働きを感じるようになった。改めて聖霊の万能性を感じ、日々の生活における傲慢さを悔い改めることができた。本当に神は全ての出来事を用いて、常に私たちに語りかけるのだろう。

 


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