「突然」に導かれて


山田千鶴(カロンデレットの聖ヨゼフ修道会)

2020年3月28日、コロナ禍の真っ只中、わたしは初誓願を立てた。これまでの信仰の歩みを振り返った時、いくつかの節目があったと思う。今回、その内の3つを分かち合ってみたい。

わたしは生まれながらのクリスチャンではない。キリスト教の幼稚園に通ったので、「イエス様」「十字架」などの用語は知っていたが、「プロテスタントは新約聖書、カトリックは旧約聖書を読んでいる」と勘違いしている程度のキリスト教認識だった。ところが大人になり仕事につき、クリスマスが近づいてきたある日、突然「本物のクリスマスが過ごしたい」という思いが湧いてきた。当時勤めていた会社の周りには4~5の教会があったと思う。毎年、近くの教会から一つずつ順番に訪ねていき、一番遠くにあったのがカトリック教会だった。初めてクリスマス・イブのミサに参加した時、「2000年もの間、最後の晩餐を続けてきたグループがあったんだー」と感動したのを覚えている。それから、「カトリックって一体なんだろう」という好奇心に駆られて、手当たり次第に本を読んだり映画を見たり、ミサにいったりした。それで、いっぱしのカトリック通になった気になっていたが、何かが足りない気がして仕方がない。「何かって何だろう」考えに考え抜いて、教会の勉強会に通おう!と決心した。その時、なんだかわからないが「何かに捕まった!」という感じがした。

勉強会に1年くらい通った頃だったろうか、司祭が突然「山田さんもそろそろ洗礼かな?」みたいなことを言い出した。「エーーーーーー?」。わたしはそれまで、洗礼なんて考えたこともなかった。「神父さん、洗礼には何か特別な資格がいるんじゃないですか? 秘儀とか公教要理とか」「今までやってきたのが洗礼準備の勉強でもあるんだよ」「エーーーーーーーーー?」。また、考えに考え抜いた。考えすぎて頭が痛くなるくらい考えた。確かに、日常生活で洗礼を受けなくてはならない理由はない。でも……「ここで洗礼を受けなかったら、わたしは一生洗礼を受けないだろう」。一大決心をして、その年の復活祭に洗礼を受けた。

洗礼を受けたからといって、順風満帆だったわけではない。その年のクリスマスに勤めていた会社から契約終了の通知を受け、次に勤めた会社ではパワハラ、モラハラ、いろいろなタイプのハラスメントがあった。毎日が辛かった。毎日、会社帰りに教会に寄って祈った。祈っても祈っても何も変わらなかった。そんな毎日が何年か続いたある日、線路沿いの道をとぼとぼ歩いていた時だった。突然、「こんなに祈っても何も変わらないということは、神様はいないんだ!」という思いが湧いた。その瞬間、バーンと目の前の風景が白黒写真のようなモノトーンで二次元の音のない世界に変わった。それはとても冷たく寂しい世界だった。「あっ、この世界はイヤだな」。そこで、「わたしが勝手に思い描いていた神様はいないんだ」と言い換えてみたところ、色や音、暖かさが戻ってきた。

「突然」に導かれて、わたしはここまで歩んできたように見える。ただ、「突然」の影にはわたしの深い望みや憧れみたいなものが隠されているような気がする。それは「真の自由とは何か」「本当の幸せとは何か」「真理そのものとは?」とうことだろうか。わたしの修道誓願もこの道の途上にある。本当にこの道を歩んで真の自由にいたることができるのか、まだまだ挑戦は続いている。

 


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