「召命」ってナニ?――神学院の昼下がり


ガブリエル髙田知樹

神学院に入学して1ヶ月がたった、私と同期生との会話。
ミサ、朝の祈り、朝食、午前の授業、昼の祈り、昼食が終わりました。
午後の授業まで少し時間があります。

 

「ねえ、今いい? 召命について、特集の記事を書かせてもらえることになってんけど、『召命』って何?っていわれたらどない答える?」

神学生「『召命』って…なんの召命? 司祭召命? 司祭とか奉献生活への召命のこと?」

「…やっぱり質問を質問で返さざるを得ないわな笑 そこからやねん。さっき授業で『5歳の子どもに、とっさに神様ってなに? イエス様は神様なの?』って質問してきたら、どう話すかってなって、色々考えたけど、うちらはそれにさえ、答えることができないって思い知らされたところの矢先、追い打ちかけるみたいやけどさ。それで、どう? 『召命ってなんですか?』って聞かれたらさ。」

神学生「そうだねー…。なんでも『召命』に繋がるし、今神学院で自分たちが生活して勉強させてもらってることも『召命』に間違いないし、結婚も就職も全部『召命』って言えるよね。」

「こないだ、先生が『召命』をヴォケーション(vocation)とかコーリング(calling)とか、別の言葉で説明してはったね。」

神学生「『召命』って言葉がそもそも専門用語というか、業界用語というか。」

「そうそう。でも、真っ先に『司祭召命?』って返したってことは、召命イコール聖職者への召し出し、って反射的に思い浮かぶってことやん? 実際そうやと思うし。でも結婚も就職も全部『召命』に含めることができるってことは、言葉の辞書的な定義を探したところでピンとくるようなものでも、ないってことやね。」

神学生「言葉の意味がわからないんじゃなくて、召命っていう言葉の使い方、使われ方から読み取れるものを考えるほうがいい。」

「召命イコール司祭召命にかなり寄せて解釈されるのは、未だにさ、他人事じゃないけど、自分たち人間の地上での生活全てがイエスとともにあって、イエスのうちにあって、一部の『特殊な人』だけが司祭を志す『召命』を感じる、それは選ばれし人である!みたいな、司祭と信徒との距離とか感覚とかはもう俗とは違う前提を引きずってる今の教会の姿があるからかなぁって。」

神学生「…よくわからないけど、言いたいことはわかる。」

「第2バチカン公会議文書の講読で、教会憲章を読んだときに『信徒に固有な召命は、現世的な事柄に従事し、それらを神に従って秩序付けながら神の国を探し求めることである。』(31項)って書かれてて『信徒に固有な召命』ってちゃんと明記してあるねん。50年前やで?」

神学生「教会のために、信徒も奉仕できるし、しなければならない、それで教会は変わった。それに伴って『信徒に固有な召命』が初登場したんじゃなくて、元来あるのに、改めて強調した、そんなふうに読めるね。」

「なんかそれでさ、司祭召命のために教会はすごく期待するし、実際いろんな集いがある。出身教会でも祈ってますよ!って励ましてくれる。ものすごくありがたい。本当にありがたい。ところで、こないだ(5月3日)世界召命祈願の日だったじゃん。召命祈願の4文字になれば、一人でも多く司祭が生まれますように、ってことだよね。」

神学生「確かに…。召命を祈願するって、召命って祈願されるものなのか? 合格祈願、安産祈願じゃないんだから。」

「でさ、さっきの。パパ様、去年関口に来はって、青年の集いに行く前に、クリストゥス・ヴィヴィト(教皇フランシスコ『キリストは生きている』)もう一度読んでてんやん、その時ノートに書き写した箇所があって。(ノートを見せる)」

「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。これは貴重なものです。わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです。

(『キリストは生きている』248)

神学生「うちらがごちゃごちゃ考えてることが、もうきれいにまとまってるじゃんか!笑」

「そうなんだけどさ笑 召命は、司祭職を志すことだけが召命じゃなくて、どういうふうにイエスを生きるのか、誰のために生きるのか、それが召命で、そのなかの選択肢のひとつに、教会や司教との一致を通して生涯を捧げるかたちで奉仕の務めを果たす司祭職がある。他人事に考えることじゃない。うちらも毎日、過去を振り返って、一日を振り返って、イエスさんと生きている実感を深めつつ、司祭召命の識別を深めてってるわけじゃん。自分のことを考える目的として、結局、自分はどういう能力なり性格で、この人生の役割はなんなのか、司祭職がもっともふさわしく確実なのかを、深めて探ることにあるわけで。」

神学生「うんうん。そのための神学生秘伝の技術とか祈り方とかあるわけでもなし、神学院来る前に、聖堂で祈ってたのと、結局は同じだよね。てか祈りの技術みたいなことを色々試行錯誤してもしょうがない。聖書と『教会の祈り』があれば、毎日詩編で祈れる。」

「うん、イエスさんだって詩編で祈ってたし、マリア様だって台所とか井戸端で詩編歌ってはったやろうしね。それが習慣になってるかなってへんかの違いだけやと思う。」

神学生「召命は、まずキリストを生きるためにどういう生き方をするか。なにかと司祭や奉献生活への憧れが召命と捉えがちだけど、自分の召命について考えて、実際に行動に移すことがキリスト者の優先使命、そういうことだね。」

「そうそう。召命に、大切な召命とそうでない召命がある、なんて大間違いやって思ったわ。どないする? 神学院辞めて、結婚します言うたら『あなたには召命がなかったのよ』って出身教会帰ったら散々いわれんねんで笑 召命はあったりなかったりするもんなんかい!笑」

神学生「それは笑い事ではすまないかもしれないかも…笑」

「どっちやねん! あ、神父様来はった」

神学生「よろしくお願いしまーす。」

神父様「はーい。お疲れ様。本日はえーと、どこからでしたっけー…」

 

こうして午後の授業が始まりました。

 

ガブリエル髙田知樹
東京カトリック神学院・予科生(横浜教区)。
1983年大阪生まれ、2017年4月カトリック片瀬教会で受洗。2020年4月東京カトリック神学院入学。

 


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