初ものづくしの教皇


フランシスコ教皇は、選出の瞬間から、南米出身初、イエズス会出身初、そして、フランシスコを名前とする初の教皇として一躍注目を浴びました。その人物について見る前に、まず教皇とはどのような存在かについて簡単におさらいしてみましょう。

 

教皇とは“パパ”

伝統的な称号や教会的な定義はさまざまにありますが、一般的には、ローマ・カトリック教会の最高指導者といってよいと思います。各国・地域のカトリック教会の組織上の単位である大司教区や司教区などの教区長はすべて教皇が任命します。そのようにカトリック教会で最高の権限をもっているという意味では、たしかに「ローマ法王」や「ローマ教皇」というように、王や皇帝を連想させる面があります。

しかし、教会では、信仰上の指導者、霊的指導者を「父」(パパ)と呼ぶ習慣があります。司祭を「神父」(心の父)と呼ぶ日本語の慣例にも通じています。むかしから教会の司教(または主教)についてはパパと親しみをこめて呼ぶ習慣があり、ラテン語ではそのまま Papa(パパ)が教皇の正式名称です。このラテン語から英語では Pope(ポープ)、ドイツ語では Papst(パプスト)、フランス語ではPape(パプ)という語が造られて固有の呼称となっています。日本語がやや政治的な最高地位者を連想させすぎるのかもしれません。よく「法王」か「教皇」か、と論じられますが、そもそもは「霊父」であること、その意味で「パパ」であることを考えるようにする必要があります。

もちろん、今から90年前、1929年にラテラン協約により、バチカン市国が設立され、国際世界(外交関係の世界)では、「聖座」と呼ばれる特別な存在の代表として地位が明確されているため、教皇ないしは法王という呼称にも意味があります(詳しくは、特集24「バチカンをめぐる素朴な質問あれこれ」を参照してください)。各国の首脳と会見している写真が報道されることも多々あり、国際的・政治的な影響力もうかがえます。2016年には日本の安倍首相がフランシスコを訪問し会見している写真とともに政府として訪日を要望している記事がカトリック新聞に出ていましたが、そのとなりに岡田武夫東京大司教(当時)が日本の教会としての訪日への要望を伝えにバチカンを訪ねていたという記事が出ていました。今回の訪日・来日には、どうやら、日本政府の思惑と日本のカトリック教会(司教団)の思惑とが絡み合っているようです。今回の滞在の間も教会関係の集いとともに、天皇の会見、首相との会談などが織り込まれています。その事実もしっかりと見ていかなくてはならないでしょう。

 

森一弘『教皇フランシスコ――教会の変革と現代世界への挑戦』(サンパウロ 2019年5月刊)

生い立ちと半生

教皇フランシスコの生い立ちやその半生については情報が結構出回っています(『カトリック情報イヤーブック』、『カトリック新聞』、ウィキペディア各国語版など)。さらに、注目すべきいくつかの文献からの情報も織り込みながら、教皇フランシスコの半生を見ていきましょう。

本名は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。1936年12月17日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれました。父はイタリアからの移民で、ピエモンテ州ポルタコマーロ出身の鉄道職員でした。母はブエノスアイレス生まれですが、やはりイタリア系移民の子でした。ベルゴリオは幼少期に感染症にかかり、右肺の一部を摘出しています。

先に移住して成功していた親戚を頼っての移住した父親たちでしたが、世界恐慌(1929年)の影響に巻き込まれてどん底に陥ったそうです。サレジオ会の司祭たちとの縁で借り入れることのできたお金で、父親は洋菓子店を経営するとともに靴下工場の会計係もしていたといいます。

森一弘司教の新著『教皇フランシスコ――教会の変革と現代世界への挑戦』(サンパウロ 2019年5月刊)はベルゴリオの少年時代について次のように語っています。

教皇自身も、自転車でケーキの配送などをして、店を手伝ったりしていたという。また、小学校を卒業すると、父親から会計事務所に働きに出されたり、清掃員やナイトクラブのドアマンのようなバイトの仕事をしたとも語っている。
温かな家庭の中で育ち、貧しい普通の庶民の間に交じってもまれながら成長した教皇からは、上昇志向も権力志向も感じられない。

(同書73ページ)

サレジオ会が経営する学校を出てブエノスアイレス大学で化学を学んだベルゴリオは、すでに16歳のときに修道生活への召命を感じていたといわれます。教皇紋章に掲げられている文言 Miserand atque eligendo「憐れみ、そして、選ぶ」は、マタイの召命に対するある解釈の言葉によるものだそうで、ベルゴリオが召命を覚えたのが聖マタイの記念日のころだったことによるといわれます。つまり自らの修道召命の原点を忘れずにいるという姿勢の現れです。

ベルゴリオは1958年、21歳でイエズス会に入会し、神学校に入ります。日本や中国への宣教への望みをもっていたといわれます。やがて、教会は、ヨアンネス23世が1959年に招集を宣言した第2バチカン公会議の時代。歴史を画する公会議とその直後の時代を司祭養成期間として過ごしたベルゴリオは、1969年12月に司祭となります。1972年以降、修道院や神学校で要職を歴任し、彼の指導力が高く評価されるようになり、1973年にはイエズス会のアルゼンチン管区長に就任。1980年にはサン・ミゲル神学校の神学科・哲学科院長に就任します。

このころの神学生が現在イエズス会日本管区管区長レンゾ・デ・ルカ神父、上智大学教授のホアン・アイダル神父。教皇フランシスコの前半生を描いた『ローマ法王になる日まで』が、2017年6月に上智大学で上映されており、二人の神父はそれぞれに思い出を語ってくれました(AMORでのレポート記事を参照してください)。ベルゴリオ神父自身、会員の活動を視察するため、1987年に来日したことがあります。

(『教皇フランシスコ講話集1』ペトロ文庫、カトリック中央協議会、2014年4月刊)

『ローマ法王になる日まで』で印象深く描かれていたのは、ドイツでの或るマリア像との出会い。1986年に博士号取得のため、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営するザンクト・ゲオルゲン神学院に在籍していたとき、アウクスブルクにあるザンクト・ペーター・ペルラッハ教会で『結び目を解(ほど)くマリア』の聖画に出会い、複製を作る許可を得てこの画像の絵葉書をアルゼンチンに持ち帰ったというエピソードです(アート&バイブル1参照)。それがアルゼンチンで新たにマリア崇敬が高まるきっかけとなったといいますが、このマリア像が心に響くことになったのには、アルゼンチンでの苦悩の時代が背景にあったのでした。

 

その名は「フランシスコ」

教皇フランシスコは、その名を「フランシスコ」としたことが最大のニュースでした。教皇の名としては、これが初めてであることに、カトリック教会に親しんでいる人は、ひょっとしたら驚いたかもしれません。アッシジのフランシスコ、フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・サレジオなどよく知られている聖人の名が、どうして今までの教皇にはなかったのか。

ちなみに~世というのは、同じ名前の2世が出てから付くという慣例があるようで、初代教皇にあたるペトロはただ一人しかいないのでペトロのままです。フランシスコも初の名だったので、「フランシスコ」と呼ばれることになっています。この名をつけた経緯について教皇自身が、選挙で選ばれたあとのメディア関係者へのあいさつの中で語っています。2013年3月13日の選挙で教皇に選出されたときのことです。親友であるサンパウロ名誉大司教クラウディオ・フンメス枢機卿が語りかけたそうです。

フンメス枢機卿はわたしを抱擁し接吻して、こういいました。「貧しい人のことを忘れないでください」。貧しい人々。貧しい人々。このことばがわたしの中に入ってきました。その後すぐに、貧しい人々との関連で、わたしはアッシジのフランシスコのことを考えました。フランシスコは平和の人です。こうしてアッシジのフランシスコという名前がわたしの心に入ってきました。フランシスコはわたしたちにとっては貧しさの人です。平和の人です。被造物を愛し、守った人です。

(『教皇フランシスコ講話集1』ペトロ文庫、カトリック中央協議会、2014年4月刊、18~19ページより)

もうすでに世界に向かっての教皇フランシスコの姿勢とメッセージのすべてが暗示されているといっても過言ではありません。代表作と呼べる、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日付、邦訳、カトリック中央協議会 2014年6月刊)と回勅『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』(2015年5月24日付、邦訳、カトリック中央協議会 2016年8月刊)のモチーフがそこにあったのです。

(石井祥裕/AMOR編集部)


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