恐怖を摘み取る――8月6日、インドで話したこと


矢ヶ崎紘子

2019年8月6日、わたしはデリーで開催されたSIGNISのアジア会議に参加していました。そこで出会った何人かの新しい友人と食事や移動の時に話したことをまとめます。かれらは、韓国人、アメリカ人、そして、イギリス式の教育を受けたザンビア人でした。

 

原爆は人間の意志決定の産物である

1945年8月6日は日本人にとって、人類にとって忘れがたい日です。人間が人間に対して核兵器を使用した日だからです。約30年前、小学生だったわたしは、8月6日の朝になると、恐ろしい瞬間が早く過ぎ去るようにと寝たふりをしていました。8時15分になったら、また原爆が落ちてくるのではないかとおびえていました。

セ氏10,000度という熱で爆心地にいた人が蒸発したこと。爆風で全身にガラス片が刺さった人たちのこと。忌まわしい原爆症やケロイドのこと。戦後も結婚できないなどの社会的な苦しみのこと。わたしの知っているひとりの被爆者は、死体をまたぎながら、広島市内から山の中まで徒歩で避難しました。戦後、水揚げされた鮪が港に並べられているのを見て、累々たる死体を思い出してしまい、今でも鮪は食べたくないのだと話してくれました。まだまだありますが、わたしはこういう話を聞いて育ちました。熱で文字通り蒸発するなどというのは、人間の死に方として異常なことです。しかもそれは人間が人間に対してしたことです。

時々、「原爆が落ちた」と言う人がいます。これは間違いです。爆弾は勝手にできたり落ちたりしません。誰かが作り、落とすつもりで飛行機に載せ、広島の上空に持っていって、意図的に投下しなければ、惨事は起きませんでした。つまり、原爆はひとりでに「落ちた」のではなく、人間の意志決定の誤りによって「落とされた」のだということをまず確認しなければなりません。たとえ戦争を早く終わらせたかったのだとしても、核兵器の使用は正当化できません。

 

勝者も恐怖を感じていた

子供のころわたしはこう習いました。1945年、日本はもう虫の息で物資もなく、戦争を続けるような状態ではなかった。それに対して米軍は強大で潤沢な物資があり、勝敗は明らかだった。戦おうと考えるほうが愚かだったのだ、と。それでわたしは、怖い思いをしていたのは負けた日本人のほうだけで、勝ったアメリカ人は怖くなんてなかっただろうと思っていました。

しかし最近になって、さまざまな資料や証言が公開されるようになりました。沖縄戦についての番組(*1)で、アメリカ軍人も恐ろしい思いをしていたということを知りました。ひとりはこう話していました。どこに敵がいるかわからないと思うと恐ろしかった、やらなければやられると思った、動くものは全部撃ったと。

アメリカ軍の人たちも怖い思いをしていたのだということは、わたしにとって大きな気づきとなりました。つまり、恐怖というのは勝者が一方的に敗者に感じさせるものではなく、両者に共通しているということに気づいたのです。「やられなければやられる」も「戦争を早く終わらせたかった」も、自分を守りたい、自己正当化をしたいという恐怖の表れに他なりません。

 

恐怖が戦争をもたらす

地獄に行く人はいないか、いてもほんの少しだとわたしは思っています。ただ、東京大空襲や富山大空襲を指揮したカーチス・ルメイのことは、もしかしたら地獄にいるんじゃないか、ああいう残酷なことをする人は良心がないのではないかと思っていました。しかし最近、爆撃するときに下でどんなことが起きるか考えてはいけないとルメイが部下に教えたという話を聞きました(*2)。そうであれば、かれに良心があったことになります。良心が欠落しているから残酷な作戦を実行したわけではなかったということになります。

それなら戦争の原因は何なのでしょうか。アメリカ人や日本人が特別邪悪な人々だからではなく(というのは、戦争は世界中で起きているのですから)、良心がないからでもないとすれば、まるで戦争の原因が外からやってきて、勝者も敗者もなく人間に取り憑いているようではありませんか。その原因が恐怖なのではないでしょうか。つまり恐怖のあるところ、すでに戦争の種が蒔かれていることになります。

 

恐怖を摘み取る

日本の大学に留学してくる韓国人の学生はとても優秀で、熱心に勉強するので、わたしはいつも感心していましたが、それと同時に、韓国は非常に自殺率の高い国でもあります。これはどうしてですかとたずねると、韓国の友人は教えてくれました。「競争が怖いからだね。韓国は競争社会なんだよ」。競争の恐怖は優秀な学生を生むと同時に、多くの自殺者を作り出しているわけです。すでにここには戦争があります。自殺する人はこころの中の戦争で死んでいるとも言えるでしょう。

恐怖にとらわれた人間は、ときに自分を守るために人を攻撃します。ここには意志決定の誤りが生じています。インターネット上の中傷は、原子爆弾に比べれば些細なことに思われるかもしれませんが、恐怖にかられ、自分を守るために誤った決定をして、人間に対してするべきでないことをするという構造は同じです。

砂漠の師父たちは警告しました。「自分の心を見張れ」。また、カトリック世界の修道制の祖ベネディクトはこう書いています。「心に悪い思いが起こった場合、ただちにそれをキリストに向かって投げ砕け」(『戒律』4:50)。大切なのは心の中に起こる思いが小さく、まだ行動に結びつかないうちに、自分でそれに気づき、取り除くことです。

では恐怖を取り除いていいのでしょうか? 恐怖があるから、わたしたちはうっかり高いところから落ちたり、詐欺に引っかかったりしないで済んでいるのです。だから恐怖もありがたいものなのです。ただ、恐怖が際限なく膨らんでいくと、ついには他者を虐殺するところまで行き着きます。恐怖を抱いているこころを慰めるには辛抱づよく語りかけなければなりません。あなたは安全だ。人を攻撃しなくても、爆弾を作らなくても、競争に勝たなくても、自分を正当化しなくても、過ちを認めても、あなたは安全なのだ、安心して生きることのできる存在なのだと。

 

追記

日本に戻ってきて、日本人がルメイに対して怒りや憎悪を表しているのを見て、それは当然だと思った。そして、ルメイに良心があったかもしれないと思ったときに明るくなったこころが、暗くふさがれていくのを感じた。いま、きのこ雲や被爆地の写真などを見て、小学生のころと同じ憂鬱な気持ちになっている。

原子爆弾や大空襲によって、戦争を継続していたら死んでいたであろうもっと多くの人々を救ったという理屈に同意できたことは一度もない。その理由はおそらく、人の人生は交換したり足し算や引き算したりできるようなものではないということなのだろう。かりに、十万人の犠牲によって、百万人が楽しく暮らしているとしよう。いまその百万人を差し出したとしても、殺された十万人ひとりひとりがもっていた人生を取り戻すことはできない。

(AMOR編集部)

【注】

*1 「沖縄戦 全記録」2015年6月14日放送
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150614
https://www.nhk.or.jp/war-okinawa/

*2 残念なことに出典不明である。

 

恐怖を摘み取る――8月6日、インドで話したこと” への1件のフィードバック

  1. 戦争は神の裁きではない。
    戦争を起こすのは人間である。
    なぜ戦争を起こすのか。
    それは相手より有利になりたいという
    弱肉強食の人間の本能であるが、
    本日は弱者の不安がもたらすもの。
    だからこそ。
    逆転の発想で
    心豊かに相手を思いやる心を養うことが
    弱肉強食の世界から
    人間を高みに導く術。

    どんな理由、理屈をつけても
    人間を畜生に陥れる
    戦争は起こすべきではない。

    と、思うのです。

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