石原良明
初聖体の思い出を募ろうということになり、自分もこれを機会に、昔話でも書いてしまおうかなぁという気になった。しかしいまだ躊躇しつつキーボードを叩いている。
というのも、事情が若干特殊なのだ。場合によっては、批判されてしまうかもしれない。自分のことを書くくらいなら、聖書の研究書でもまとめていた方が楽なのだ。そしてその方面について言えば、オリジナリティのある研究は出来ないでいる。建前上は研究なんてやめたことにしている。日本の聖書学の意味では。
しかし、自分が誠実に聖書について論文が書けないのは、自分で自分に何かロックをかけてしまっているからではないか、という気もしている。たまには、自分のことを書くのも悪くないのかもしれない。ここで書く私の話というのは、実は、友人にも知らせないで済ませてしまっているような、昔の話だ。
それをわざわざネットに晒すなんて、一種の露出狂の疑いがあるかもしれない。しかし、昨今、見過ごしにできない様々な出来事が数々起きていて、それらとも関連する気がする。これを機会に、せっかくだから、披瀝してしまうことにした。
私が初聖体を受けたのは、10歳のクリスマスのことだった。幼児洗礼の慣習から言えば、若干遅い。というのは、実は私は今で言うところの小1クライシスにきれいに陥り、小学3年生が終わるまでほとんど家から出ていなかったため、教会からも足が遠のいていたからだ。
初聖体と、その後の聖書読みとしての流れのきっかけを作ってくれた恩人のシスター(この方が相当パワフルで親身に接してくれた)の話もしたいのだが、今回は飛ばしてしまおう。引きこもりから一転して社会復帰の機会を与えてくれたのは、幾人ものカウンセラーであり、最終的に私をそこに送ってくれた児童相談所の配慮だった。そして送られた先とは、何を隠そう、東京サレジオ学園である。
なお私の母親はもちろんいまだ健在だが、ただただ私が学校に行くことを祈ってくれたことだろう。結果的に私は30歳過ぎまで学生生活を送ることとなった。祈りは通じるのだ。
そんな、東京サレジオ学園に恐る恐る飛び込んだ最初の年に、私は、当時宮崎カリタス修道女会(現・イエスのカリタス修道女会)のシスター方が職員として勤めていた小学生低学年向けの寮に入った。当時学園はすでに全定員百数十名の児童生徒が十数人単位の寮(それぞれの園舎に樹木の名前が付けられ、建築はそれはそれは見事だった。こころの原風景だ)に分かれて生活するシステムに移行しており、小学生低学年の寮と5つの小中学生寮、高校生寮とに分散し、家族らしい生活を目指していた。
「良明は初聖体まだだって?」
とシスターが尋ねてくれたような記憶がある。母親から聞いたに違いない。
「うーんとねぇ、たぶんまだ」
たぶんも何も、ちょっと言っている意味がわからなかったわけなのだが。
そうして初聖体に向けて多少の要理を学ぶことになるのだが、担当してくれたのはなぜかシスターではなくて、ある小中学生寮のカトリック信徒の女性職員だった。シスター方は小学校一二年生や、少しずつ短期的にも長期的にも受け入れるようになった未就学児童を見なければならなかったのだろう。
いやしかし当時はまだまだサレジオ会の司祭もいて、今のサレジオ会の濱口管区長様が最若手のような時代だったっけ。きっと何かしらの配慮だったに違いない。
毎週何日か、それも勤務時間だったのか非番だったのか定かではないが、他に場所がなかったわけでもなかろうに、小中学生寮の保母室で、私と、もしかしたらあともう一人の児童が、一緒に要理と聖書を学ぶことになった。何回くらいのことかまったく思い出せない。その女性職員は、高野先生とおっしゃったと記憶しているが、とにかく当時子どもから見ても学園で一番きれいな先生で、聖体についての説明なんて頭に入ってこなかったのだ。
一番覚えているのは、こんな感じだ。
「ご聖体は、ウェハースの味がするよ。ウェハースってわかる?」
「なんだっけそれ?」
「んー、あ! アイスクリームのコーンだよ」
「アイスクリーム? それだと甘すぎない?」
「そっちじゃないよ」
それからほどなくして高野先生はご退職されたと思う。1996年に出版された『サレジオの五〇年』の1993年の年譜に、「元職員の結婚式がドン・ボスコ記念聖堂で相次いで行われる。」とある。たぶんこのくらいの時期に園を去り、ご結婚されたのだと思う。とにかくそんな普通の人だった。考えてみれば、職員の中には上智大学神学部の卒業生の一般信徒も何人かいた。いわゆる神学生くずれもいた。再会する機会があれば先輩と呼ばねばなるまい。
初聖体の話に戻そう。クリスマスの夕べのミサでのご聖体と(もちろん少し舐める程度の)聖血。拝領して、自分の中で何かが変わった気がした。ぶうぉん!と何かがインストールされた。ごミサ中、その前後の記憶はほとんどない。一番お世話になっていた担当のシスターからは和風のマリア様の御絵をいただき、それを入れたプラスチックのフレームの裏にはメッセージがサインペンのようなマジックで書かれていた。今でも大切に机の引き出しの奥底で埋もれている。それが、東京サレジオ学園に入った最初の年の出来事だ。ときに1991年。
ところで、私の同級生は多かったのだが、卒園後にある友人は、「養護施設とか児童福祉施設にいたと説明してもみんなには伝わらない」と言っていた。仕方なく「孤児院」という言葉で来歴を説明するのだという。
私が東京サレジオ学園にお世話になっていた当時でも、確かに知る限りまったくの天涯孤独という人も一人はいた。しかし大半は両親のいずれかが病気、または一人親で病気、親戚は多数いるけれども事情があって入園というケースが多かった気がする。いずれにもしても千差万別様々な事情が一人ひとりにあって、職員も大変だったろうが一緒に生活している方も大変だった。これは本当に大変だった。
私のようなのは90年代から徐々に増えていったケースのように感じたが、経済的な理由でなしに登校拒否だから、という入園理由に引け目を感じたこともあったし、今でもそうだ。自分はもっと苦しい思いをしている人々から本来受けるべき機会を奪ったのではないか。どうしてもそう思ってしまう。しかしそれでも自分のアイデンティティは10代の間受けたサレジオ教育にあるし、出身地は小平市ということにしてある。そこで大切にされた記憶が確かにある。
教皇様がいかに大事だと言っても、家庭は壊れるときは壊れる。だから「孤児院」は時代時代の問題に常に応じて常に新たな形で子どもたちを受け入れ、愛を届けなければならないのだ。だから社会福祉を軽視する政治は許せない。それこそ人を捨てることだ。そして何らかの責任を持つ職員は異口同音に「学園にはお金がない」と言っていた。耳にこびりついている。
そして、孤児院だからと言って、それがサービスになるのか措置なのか問わず、場合によっては勇気を出してそれを受ける親の勇気も必要だ。子ども本人はもちろんだろうけど。世間体を気にしていたら、私は今頃どこかで社会に報復していたかもしれない。サレジオ学園で過ごしたことでさみしい思いもたくさんしたが、神学を博士後期課程まで進むことはまずなかったはずだ。その根にあるのは、私の場合は、今考えてみればだが、シスターが「受けれ」と言って促してくれた初聖体なのかもしれない。
ちなみに私がいた頃の東京サレジオ学園には、もうイカれた司祭はいなかった。司祭ではなかったが、90年代当時だからまだ仕方がないような気がするが、職員(神学生はどうだったかなぁ)による多少の平手打ちはあった。多くのメディアが報道したような闇が過去にあったのは確かだろうし、認めるべきだ。件の宣教師園長先生は煉獄にこれからも末永くいることだろう。被害者もいることなのだから、真実がさらに追究されて癒されることを祈っている。
しかし、東京サレジオ学園の光の部分を報道せずにスキャンダルばっかり報じて喜んでいたら、それこそ今現在そこら中でアパートやマンションの鍵をガチャリと閉めて、生きたらいいのか死んだらいいのかわからずに赤ちゃんを抱いてしゃがみこんでいるシングルマザーその他保護者から、いのちの機会を奪うことになりかねない。虐待にだってつながりかねない。それは、私が東京サレジオ学園の卒園生として、一番悲しいことだ。
ささやかながらキリスト教メディアに携わることになった者としても、怒りを感じている。
もっと早く書けば良かった。自分がどうして聖書を読み続けているのかも、わかってきた気がする。東京サレジオ学園で受けた初聖体は、聖書読みを一人生んだのだ。
(上智大学神学部非常勤講師、AMOR編集部/現八戸学院大学准教授)