大籠(おおかご)の殉教


岡田 謙一(仙台教区・八木山教会、殉教地大籠を守る会事務局)

宮城県と岩手県の県境を挟んで宮城側には米川(登米市東和町米川)の、岩手側には大籠(一関市藤沢町大籠)の殉教地がある。

大籠教会全景

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した1549年から10年後の1558年、当時狼河原(おいのかわら、現在の米川)に住んでいた千葉土佐という浪人が、新しい製鉄技術を学ぶため備中国中山(今の岡山県)から技術者として布留大八郎、小八郎兄弟(のちに千松に住み、千松と名乗る)を招聘した。この兄弟から南蛮流(一説には出雲の古来の製鉄法を一部取り入れたとある)の技術が導入された。その結果、大籠は当時きっての製鉄産地になり、多い時には日産一千貫もの鉄がつくり出された。

千松兄弟の素性についてはいろいろ説があるが、彼等はキリスト教が盛んに布教されていた備中の国の出身であることから、製鉄の技術と同時にキリスト教の知識を併せ持っていたと言われている。この兄弟は製鉄の作業の一つであるたたら・・・(フイゴ)踏みの間、唱え言(祈りのようなものか)を唄うと早く鉄が溶けると指導したと言う。そして、大籠の暮らしも豊かになり、心の安定にも寄与したことから、キリスト教はこの地で一気に広まった。(一説には信徒が三万人にも及んだとも)

地蔵の辻

しかし、徳川幕府のキリシタン禁教令の取り締まりは厳しさを増し、仙台藩も鉄の産地として保護したかったが、やむをえずキリシタン弾圧に本腰を入れざるを得なかった。大籠の「地蔵の辻」で1639年に84名、1940年に94名、計178名が処刑され、また、近くの「上野刑場」では1640年に94名、更に「祭畑刑場」で3~40名等、大籠全体では300余名の処刑が断行されたと言われている。

現在、大籠には刑場跡や密かに遺体が埋められた塚(墓を作ることは許されなかった)、隠れて祈ったと言われる洞窟等の史跡・遺跡が十数カ所残されており、日本国内外から年間二千人近くの見学者、巡礼者が訪れている。1952年(昭和7年)に史跡・遺跡群のほぼ真中に殉教者を顕彰するために大籠教会が建てられたが、現在は無人の教会となっている。この殉教地に立つ教会の教会だけでも何とか後世に残していきたいと仙台方面の信徒が中心になり「殉教地大籠を守る会」を立ち上げ、除草や修繕等の保全活動を細々ではあるが続けている。

幸いなことに、この殉教地を抱える一関市藤沢町は製鉄の歴史と大籠キリシタンの布教と殉教の歴史を子々孫々に伝えたいと、地元の地主・有力者の協力を得て1995年「大籠キリシタン殉教公園」を整備し、その中の「資料館」に数々の遺物や古文書、模型を展示、また、「クルス館」には彫刻家・舟越保武氏の作品を配置している他、同館に登る階段脇には遠藤周作、加賀乙彦、田中澄江等のカトリック作家がこの地を訪れた時の感想を石碑の形で残している。

総じて東北の殉教については、権力によりその記録がほとんど抹消されてしまっているのが大半である。しかし、それはその地で殉教がなかったということではなく、殉教者の名前を知らずとも、彼らのその時の苦しみ、葛藤を推し測り、祈ることは十分できる。

(写真提供:筆者)

 

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